最後の決戦 〜ガウガメラの戦い〜


  • ガウガメラの戦い
  • 紀元前331年春にエジプトを出発したアレクサンドロスは、往路と同じルートをたどって北上してテュロスにまで戻った。 当時パレスティナ南部でサマリア人が反乱を起こし、マケドニア人太守を殺したという出来事が起きたこともエジプトを 出発する要因の一つとなった。アレクサンドロスはテュロスへ向かう途中に、サマリア人に対して激しい弾圧を加えて鎮圧 した。テュロス滞在中に、グラニコス川の戦いで捕虜にしたアテナイ人傭兵を釈放し、小アジア地域の財政管理を改革した。 アテナイ人の釈放については、アテナイが当時反マケドニア闘争を展開していたスパルタ王アギスの味方にならぬようにする ための措置であったという。彼はテュロスからさらにダマスコスをへて内陸へ進み、ユーフラテス川の渡河点タプサコスに 7月か8月に到着した。そこにはダレイオスが派遣したマザイオス率いる軍勢がいたが、彼はマケドニア軍がやってくると撤退 してしまった。そしてアレクサンドロスは妨害されることなくユーフラテス川を渡り、さらにメソポタミア北部の平原を進軍 した。

    この時のマザイオスの撤退に関して、戦略的な理由があったのか定かではないが、おそらくアレクサンドロスの進路の偵察 が彼の部隊の主要な目的であったのではないか。一方でアレクサンドロスの方でも、一気に南下してバビロン、スサを突く というルートは魅力的ではあっただろうが補給の問題などを考えると、南部より北部の方が補給も容易であることや、行軍も 容易であることから、ユーフラテス川を渡って北部を進軍するルートを考えていたのではなかろうか。行軍途中でペルシアの 兵士を数名とらえて聞き出したところ、ダレイオスがティグリス河畔に布陣しているという情報を得た。そこでティグリス川 に向かったもののダレイオスはそこにはおらず、ティグリス川を妨害を受けることなく渡河した。

    ガウガメラの戦いは前331年10月1日という日時が計算されているが、これは合戦が起こる前に起きた月食から暦日を算出 したためである。渡河4日目に偵察部隊を送って敵兵数名をとらえ、ダレイオスが近くに布陣していることを知ると、そこで4日 間休息をとった。そこから前進を開始したが、前方の丘が視界を遮り、丘を下り始めてようやくダレイオスの大軍を見ること ができたのであった。そこで地形を見聞して露営したが、このときに夜襲を進められたアレクサンドロスは「私は勝利を盗 まない」といってそれを拒否したという逸話が残されている。一方のダレイオスはアルベラという町から100キロ離れたと ころにあるガウガメラに陣を敷いた。ダレイオスはそこを自ら陣地として選び、広大な平原に大軍を集めてマケドニア軍と戦う つもりであった。しかしこの時、ダレイオスは夜襲を警戒して全軍に武装させて警戒態勢をとらせ、結果としてガウガメラ の戦いにおいて士気を低下させてしまうことになる。

    そして紀元前331年10月1日、ガウガメラの平原においてアレクサンドロス率いるギリシア・マケドニア連合軍とダレイオス3世 率いるペルシア帝国軍が激突した。戦況はペルシア軍がこの戦いで投入した鎌付き戦車やゾウ部隊はほとんど効果がなく、一方 のアレクサンドロス軍は彼の巧みな用兵によりペルシア軍左翼に生じた隙をついて一気に攻め込み、ダレイオスへと迫った。 そしてダレイオスはこの戦いでも再び逃げ出していった。一方でマケドニア軍左翼ではパルメニオンとペルシア軍が激闘を繰り広げ ていた。アレクサンドロスがダレイオスの追撃に取りかかっている中でパルメニオンは独力でペルシア軍を撃退した。

    こうして ガウガメラの戦いはアレクサンドロスの勝利に終わったが、アレクサンドロスはまたしてもダレイオスを取り逃がしてしまった。 しかしペルシア王がその総力を結集して大軍は敗北し、彼がこれに匹敵する大軍を再び組織することは困難となった。これにより アレクサンドロスのペルシアに対する勝利はほぼ決定的なものとなった。これ以降アレクサンドロスはバビロン、スサへと進軍 するが、以前と比べると余裕を持ってペルシアの動きに対処できるようになったことは容易に想像できる。またガウガメラの戦い で勝利したときに、莫大な戦利品を手に入れたことでマケドニア軍の財政状況は改善された。このとき、アルベラにて接収した 財貨は銀で3000〜4000タラントンにもおよんだという。

  • バビロン、スサ、ペルセポリスへ
  • ガウガメラの戦いに勝利したアレクサンドロスはこの後バビロン、スサ、ペルセポリス、パサルガダイといったペルシア帝国 の重要都市へと軍を進めていく。これらの都市はいずれもペルシア帝国の重要都市であり、ガウガメラで逃げたダレイオスの権威 の無力化をねらってこれらの都市を攻略したと考えられている。ガウガメラの戦い終了から3週間ほどたった後、アレクサンドロス はバビロンに近づいた。バビロンに接近したアレクサンドロスの軍に対してバビロンからは太守のマザイオスが自ら出迎えて、都市 を開城して降伏すると言うことを伝えた。こうしてバビロン無血開城が果たされたのであった。

    アレクサンドロスはバビロンに 約1ヶ月ほど滞在するが、ここではエジプトに対して行ったのと同様に伝統を尊重する姿勢を見せた。マルドゥク神殿の再建費用 を出して、伝統的な進行を尊重する姿勢を見せたことはバビロンの支配者層には好印象を与えたであろう。またバビロン滞在中に 軍団兵士に対して特別手当を出して兵士たちの労をねぎらった。そしてバビロンはアレクサンドロスの征服地統治政策の転換点と なるのであった。

    アレクサンドロスは東征開始からバビロン入城までの間に征服した土地に関して、従来はペルシア帝国側の人間が太守として任命さ れていた地域にはマケドニア人、ギリシア人を太守として任命した。カリアやエジプトは現地人がトップにいたが実質的にはマケド ニアによる支配が行われていた。しかしバビロンを出発するに当たって、アレクサンドロスは太守をつとめていたマザイオスを留任 させた。今までならば新たな太守を任命するところであるが、従来の支配者層に支配を任せるという姿勢を打ち出したのである。 これ以降アレクサンドロスの征服地には東方人の太守が任命されたり留任するという事例が多く見られるようになる。

    ペルシア帝国 の主要部分を制圧した彼が、征服地の統治を考え始め、そのためには現地の有力者を支配に協力させることが必要であるということ に気が付いたためであろう。バビロンを出発したアレクサンドロスはスサに入った。スサもアレクサンドロスに対して抵抗すること なく無血入城という形をとった。バビロンやスサの町の財貨はマケドニア軍に接収され、その額は莫大なものであった。ここで獲得 した貴金属を元に貨幣が大量に発行され、それにはアレクサンドロスの名や図像が刻印された。兵士への給与や戦費をまかない、 さらにイデオロギー戦略の手段にもなる大量の貨幣が東地中海世界で流通するようになるのである。

    バビロンからスサに向かう途中でアレクサンドロス率いる東征軍にマケドニア本国から送られてきた増援部隊が追いついた。 増援部隊派遣の要請はガウガメラの戦いが始まるよりも前にすでに行われていたが、当時ギリシアではアギス戦争が勃発しており、 容易に増援部隊を派遣することができなかったためにこの時期まで遅れたのであろう。アギス戦争は前331年秋にメガロポリスの 戦いでアンティパトロスがアギスを破って勝利し、マケドニアの勝利・スパルタの敗北という結果に終わった。そこでようやく増援 部隊を編成して派遣できるようになったのであろう。この増援部隊がマケドニア本国から送られてきた最後の増援部隊となる。 以後の増援部隊は各地から集めた傭兵に頼るか、東方系住民を編入してまかなうようになる(それはもう少し後の話になるが)。

    前331年冬、アレクサンドロスはスサを出発してペルセポリスへと向かった。ペルセポリスへと向かう道は要塞が各地に築かれて 守られており、とくに「ペルシア門」という要所の守りを固めてアレクサンドロスを待ちかまえていた。アレクサンドロスは本隊 とはべつに自ら率いる別働隊を組織して直接「ペルシア門」の攻略に向かった。しかし「ペルシア門」の抵抗は激しく、東征開始 以来初めてといってもよい敗北を喫したのであった。その後、正面では陽動作戦を展開して自らは背後へ回って「ペルシア門」を 攻略した。そして前330年1月、ペルセポリスに入城したのであった。こうしてペルシア帝国の主要都市がすべてマケドニア 軍の占領下に入っていったのであった。


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