神の子 〜エジプトへ〜


  • テュロスの攻略
  • イッソスの戦いで勝利したアレクサンドロスはフェニキア地方へと入った。フェニキア地方のシドン、ビブロス、 アラドスがアレクサンドロスに対して門を開き、アレクサンドロスに従っていった。これらの出来事は紀元前333 年末から翌年始めにかけて起こったことである。フェニキア地方を進む間にダレイオスから親書が送られ、ユー フラテス川以西の領土割譲と同盟締結を求めてきたという。しかしアレクサンドロスはこれを拒否し、戦い続け ることを明らかにしたのであった。そのアレクサンドロスに対し激しく抵抗したのがテュロスであった。

    テュロスはフェニキア最大の商業都市国家であり、本土の旧市のほかに沖合の小島に新市を建設していた。テュロスの 主神メルカルトがヘラクレスに同定されていることを知ると、アレクサンドロスはメルカルトの神殿への 参拝を申し出た。しかし、テュロスからは本土の旧市側の神殿が供儀の場としてふさわしいという回答が返って きた。これは新市に彼を入れないというテュロス側の意思表示とも受け取れる答えであり、これを拒否の回答と 見なしたアレクサンドロスはテュロスに対して攻撃を行うことにした。

    前332年1月、テュロス包囲戦が開始された。アレクサンドロスは大量の土砂、木材を投入して岸から海中にのび る突堤を築き、攻城機を近づけて城壁に直接攻撃を仕掛けようとした。テュロス側はこれに対して激しく反撃し、 火船を突堤につっこませて攻城機を焼き払った。突堤を築く工事はテュロス側の反撃が激しくなる中で困難を極め た。さらに春先の嵐により突堤が破壊され、これまでの工事は無駄になってしまった。

    突堤は再建されたが、犠牲 の多さの割に成果の上がらぬこの作戦は放棄され、変わって海上からの攻撃に切り替えられた。船に攻城機を載 せてそれにより攻撃を仕掛けようとしたのであった。これに対しても船を焼き石を落とし、錨を切り、といった 様々な抵抗を繰り返した。アレクサンドロスを助けたのはペルシア側から寝返った艦隊であった。海上にあった アラドス、ビブロス、シドンの艦隊80隻、キプロス諸王の艦隊120隻、これに他の艦隊も併せて計224隻におよぶ 艦隊がアレクサンドロス側についたのであった。また7ヶ月にも及ぶ包囲戦のなかでさしものテュロスの防衛力 も低下していった。頼みの艦隊の出撃も不発に終わり、艦隊出撃が不発に終わった2日後に外海側の城壁の裂け目 からマケドニア軍が侵入し、テュロスを攻略した。このとき殺されたテュロス市民は8000人にも及んだという。 テュロスの攻防戦では攻めるアレクサンドロス側は攻城塔を並べて攻撃し、テュロス側もそれに対して反撃を行 っており、攻守双方で軍事技術を大いに活用していたのである。

    しかし、テュロスはなぜアレクサンドロスに対してここまで激しく抵抗する道を選んだのであろうか。そのこと を考える上で、イッソスの戦い終了後のペルシア軍の動きが手がかりとなる。イッソスの戦いで敗れたダレイオス は直ちに軍の立て直しを図り、帝国全土から軍を動員することとなった。一方イッソスで破れて逃げ延びたペル シアの将軍たちはカッパドキア・パフラゴニア地方へ入り、そこで兵を集めていた。そして西アジアの支配権を 回復しようとして戦いを起こしたのであった。テュロス包囲戦が始まった当時はエーゲ海においてペルシア海軍 が制海権を握っており、陸海のペルシア軍が連動してアレクサンドロスの背後を脅かそうとしていた。テュロス の反抗もこうした情勢をふまえたものであったと考えられている。

    背後でこのような状況が生じている頃、アレクサンドロス側で鍵を握っていた人物がいる。後にディアドコイ戦 争において強力な力を示すアンティゴノスその人である。彼は当時フリュギア総督に任命され、東西交通の要所 を押さえていた。小アジアにおいてアンティゴノスは数の面では劣勢でありながらペルシア軍を次々に破り、 小アジアにおける支配を確立していった。こうして背後のペルシア軍が破れた頃に、テュロス包囲戦でも アレクサンドロスが優位に立ち、テュロスは陥落したのであった。

  • エジプトへ
  • テュロスを攻略したアレクサンドロスはさらに南下してガザへ向かった。ガザではペルシア軍の激しい抵抗に遭 いつつもこれを下した。このときガザの男子市民のほとんどが戦死したという。こうしてフェニキア地方を平定 したアレクサンドロスはエジプトへと向かった。エジプトではペルシア軍も抵抗をあきらめて降伏し、彼はエジ プトの解放者としてエジプト人に迎えられたのであった。そしてエジプトにおいて彼はファラオとして迎えられた ようである。エジプトのルクソール神殿の壁にはファラオの姿をしたアレクサンドロスの像が残されている

    エジプトに入ったアレクサンドロスは土着の信仰を尊重した。このことは、エジプトの聖域を侵し、聖牛アピス の肉を食ったアルタクセルクセス3世の振る舞いという先例と比べてエジプト人にとって非常に好ましいものに 見せるうえで役だった。エジプトに入った翌年紀元前331年、メンフィスから川を下り河口付近のデルタ地帯を調 べていたアレクサンドロスはこの地に都市を建設した。それがアレクサンドレイア(アレクサンドリア)であり、 後に東征の過程で各地に建設されたアレクサンドリアの始まりとなるものであった。この都市は後にプトレマイ オス朝エジプトの首都となり、学問の中心地としてヘレニズム時代に栄えることになる。エジプトを征服した頃、 エーゲ海におけるペルシアとマケドニアの争いもマケドニア側が優位に立ち、ついにペルシア艦隊の拠点となっ ていたキオス島を制圧し、さらにレスボス島とコス島も奪回した。こうして東地中海一帯はマケドニアの支配下 に入り、「マケドニアの海」とも呼ぶべき状態が生まれていた。

    アレクサンドロスは半年にわたってエジプトに滞在したが、その間に砂漠の奥にあるシーワオアシスを訪ねている。 前331年初めに海岸沿いに西へ進み、ようやく聖域へと到着した。そして聖域で祭司に自分の運命について訪ねた。 このときにアモン神の神託を受けた彼は満足して戻っていったという。この時にどのような問を発したのかは わかっていない。シーワオアシスのアモンの神祠に託宣を乞うた時に、アレクサンドロスは自らの出生について、 自分がゼウス=アモン神の子であるということを確認したかったのだとする伝承が広く伝わっている。真偽のほどは 定かではないが、アレクサンドロスがこれ以降ゼウス=アモン神を強く意識するようになったことは様々な場面から 見て取れるようになる。エジプトの統治を整えたアレクサンドロスは前331年春にエジプトを出発して北上し、 再びダレイオスとの直接対決に臨むことになるのである。


    アレクサンドロス東征当時の東地中海世界
    実はシーワオアシスから帰るルートが違うらしい(「興亡の世界史」1巻によ る)。
    本当は行きと同じルートで折り返したらしい。原因はアリアノスが史料を誤読して書いたためだとか…。

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