天下分け目  〜イッソスの戦い〜


  • ペルシアの反撃
  • アレクサンドロスはゴルディオン滞在中の前333年春にはいるとペルシア軍も反撃に転じた。ダレイオス3世は全艦隊および 小アジア沿岸部の軍勢の指揮官としてメムノンを任命し、メムノンはキオス島を占領し、ミュティレネをのぞくレスボス島の ポリスを帰順させた。その結果キクラデス諸島の多くのポリスがメムノンに使者を送り帰順を申し出た。その後エウボイアに 向かうという情報が流れるとエウボイア諸都市は恐慌状態に陥った。それからメムノンはミュティレネ包囲を開始するがその 最中の前333年夏に病死した。しかしメムノンの死がペルシアの反攻作戦を頓挫させることはなく、小アジア沿岸部における ペルシア海軍の活動は活発化している。指揮を引き継いだペルシア人総督はミュティレネ攻略後、艦隊をキクラデス諸島に 派遣し、さらに活発な活動を展開した。当時ハリカルナッソスの砦に立てこもり抵抗を続けていたペルシア軍指揮官はそこ から周辺に進出しカリア地方南部を獲得し、マケドニアに攻略されていたミレトスも再びペルシア側に与した。そこから黒海 からの穀物輸送路ヘレスポントスに向かった。

    このように前333年の春〜夏の時期はペルシアではダレイオス3世が大軍勢を動員して進軍し始める一方でアレクサンドロス の背後にあたる小アジア沿岸部やエーゲ海はペルシア艦隊の活発な活動がみられ、後方からの攪乱が行われていたのであった。 このような状況に陥ったアレクサンドロスは一時解散していた艦隊を再び再建して対抗せざるを得なくなった。艦隊が再建され てペルシア艦隊との交戦がつづき、その結果前333年夏にマケドニア艦隊がヘレスポントスでペルシア艦隊を破り、別の艦隊も キクラデス諸島方面でペルシア艦隊に勝利した。カリア地方でもペルシアに奪われた諸都市を奪回していった。このような状況 が前333年夏〜秋に見られた。その流れの中で前333年11月はじめにイッソスの戦いが起こるのである。

  • キリキアにて
  • イッソスの戦いが起こる前の前333年の春から秋の時期には上記のような状況が生じていた。そのような状況下でアレクサンドロス はどの様な行動を取っていたのであろうか。まずアレクサンドロスは前333年初夏に出発するまでゴルディオンに滞在していた。 ゴルディオンで本国から帰国した兵士達と合流して再び軍を先に進め、カッパドキアを平定した。しかしカッパドキアに深入りする ことはなくキリキアへと向かった。タウロス山脈を越えてキリキア地方の平地へはいるには「キリキア門」と呼ばれる狭い峠道を 通らなくてはならない。ペルシア側も守りを固めていたが、太守アルサメスはキリキア地方においてかつて採用されなかった焦土戦 を展開しようとしたことが幸いした。主力の離れたペルシア守備隊はアレクサンドロスに難なく破られ、焦土作戦も未然に阻止され たためである。こうしてキリキア門を突破したアレクサンドロスはキリキア地方の中心都市タルソスへと入ったのであった。

    前333年の夏の終わりにキリキアの州都タルソスに入ったアレクサンドロス大王であったが、ここで思わぬアクシデントにみまわ れた。町の中を流れるキュドノス川で水浴中に突如痙攣を起こし、高熱を発して倒れてしまった。夏のキリキアを進むなかで体力を 消耗していたところで冷たい川に入ったことにより発病したようである。水浴中に発病したアレクサンドロスは侍医フィリッポスの 調合した薬を飲むことで回復したが、回復までには結局1ヶ月〜2ヶ月かかり、その間マケドニア軍はキリキアで足止めされてしま ったのであった。

    病気が完全に癒える前、アレクサンドロスは副将パルメニオンに先発部隊を率いさせ、イッソス湾一帯の都市を制圧させると ともに「シリア門」と呼ばれる峠道をペルシアから奪わせた。一方アレクサンドロスはタルソスを発つと西へ向かい、アンキアロス とソロイという都市を攻略するとさらに西へ進み山岳地帯のキリキア人を平定した。その後ソロイに戻ってきたときにハリカルナッ ソスがようやく攻略できたという知らせが届いたのであった。これを祝って競技会を催した後タルソスに戻り、そこから東へと進軍 したのであった。

    そして先発隊からダレイオスがソコイという場所にいるという情報を得ると、ダレイオスがソコイからシリア門を 通って沿岸部に出てくると考えたアレクサンドロスはヨナの柱とよばれる隘路でダレイオス軍を待ち受けるという作戦を立てた。 この時、彼はダレイオスは南から来るに違いないという確信を持っていたであろう。イッソスに傷病兵を残して進軍して南へと進軍 していることからも北からダレイオスが現れるとは考えてもいなかったようである。しかし事態はアレクサンドロスの想像とは全く 異なる展開を見せることになる。

  • イッソスの戦い
  • ダレイオス率いるペルシア軍は前333年夏の終わりにバビロンに集結した大軍はエウフラテス川にそって北上し、やがてソコイ に陣を敷いたが、ソコイからアマノス門と呼ばれる北の関門を通ってイッソスへ進出し、そこに滞在していたマケドニアの傷病兵を 虐殺した。生き残った者達は船で脱出し、ミュリアンドロスという町に滞在していたアレクサンドロスにペルシア軍が背後に 出現したことを知らせた。アレクサンドロスが北から沿岸部へと出るルートの存在を知らなかったのか、知っていてもペルシア軍 が通る可能性を考えなかったのかは定かではないが、彼の当初の判断にはかなり問題があったと言わざるを得ない。またダレイオス がソコイの平原を離れてわざわざ沿岸部に出てきた理由としてはアレクサンドロスの本隊と先発隊が別れて活動していることから 軍を分断して討ち滅ぼそうとしたためだとする見方と、大軍であるが故に補給の問題を抱えていたことからやむなく進軍したとする 見方がある。いずれにせよペルシア軍が北から現れ自軍の背後にいるという当初のもくろみとは異なる事態が発生したことにたいし、 その日の夜に北へと反転してダレイオスを討つことを決意したのであった。

    前333年11月ころ、北へ反転してきたアレクサンドロス率いるマケドニア軍とダレイオス3世率いるペルシア軍がイッソスの南 ピナロス川において対峙した。狭い海岸地帯での戦闘になったため、ペルシア軍は騎兵戦力を有効活用することが出来なかった。 この戦いにおいてアレクサンドロスの勝利を決定づけたものは彼自身が近衛歩兵や騎兵を率いてダレイオスの布陣する中央部 へと切り込んでいったことであろう。この時、ギリシア人傭兵はマケドニア密集歩兵と互角の戦いを演じていたがやがて左翼の マケドニア軍も中央へ殺到した。結局中央部に布陣しこのような状況を見ていたダレイオスはアレクサンドロスの攻撃を受ける と逃げ出し、アレクサンドロスはそれを追撃していった。ダレイオスはアレクサンドロスの追撃を逃れて逃げ延びることに成功 したが、指揮官が逃亡したペルシア軍は統制を失って総崩れになった。こうしてダレイオスとの直接対決となったイッソスの戦 いはアレクサンドロスの勝利に終わった。


    アレクサンドロス・モザイク
    イッソスの戦いを描いたと言われるが、実際のところはよく分からないらしい。
    (画像はVRomaより)

    この戦いで勝利したアレクサンドロスは莫大な戦利品を手に入れた。ダレイオスが残した盾や弓、マント、戦車を手に入れ、 陣中に残されていた3000タランタ、ダレイオスの豪華なテントと調度品を手に入れた。またダレイオスの母親、妻、子供達が 残され、彼らを捕虜とした。また戦いの翌日にはダレイオスが様々な物資を送っていたダマスカスにパルメニオンを送ってそれ らを押さえた。鋳造貨幣だけで2600タランタ、銀が500ポンド、三万人の非戦闘員と7000頭の家畜を手に入れ、ペルシア人高官 の家族や外国使節が捕虜となった。その後ダレイオスから講和の申し入れがあったと伝えられるが、アレクサンドロスはそれを 拒絶した。しかしダレイオスを追撃して東へ進軍するわけにはいかなかった。東地中海沿岸のフェニキア人達は未だマケドニア の支配下に入っておらず、これらの地域を平定するために彼はフェニキアへと向かっていったのであった。


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