アレクサンドロス、即位する


  • 前337年の出来事
  • マケドニア王フィリッポス2世の息子として、後継者にふさわしい教育を受け、不在の折には国事を任され、 カイロネイアの戦いでは騎兵隊の指揮を任されて活躍し、さらに戦後のアテナイに使者として派遣されるなど、 フィリッポスの後継者としてアレクサンドロスは順調な成長を遂げ、その力量を示しつつあった。しかし前337 年にマケドニアの宮廷ではフィリッポス2世の結婚をきっかけに不和が生じ、アレクサンドロスと母のオリュン ピアスが出奔するという出来事が起こった。

    前337年にフィリッポス2世はマケドニア貴族アッタロスの姪を妻 として迎え、その祝宴の席でアッタロスはアレクサンドロスに対して侮辱的な言動を行った。長子相続が確立していないマケ ドニアにおいて新たな後継候補が生まれる可能性が生じることに不安を覚えたアレクサンドロスと、宮廷内での 地位の低下の不安や焦り、嫉妬にかられたであろうオリュンピアスは宮廷を出奔してエペイロスへと去っていっ たのであった(アレクサンドロスはその後フィリッポスの賓客デマラトスに説得されてようやく帰国した)。 しかしこの出来事は母子出奔にとどまらず、その直後にフィリッポス2世はアレクサンドロスに忠実であった彼 の「親友たち」5人を国外追放に処するという事態にまで発展した。このように前337年のフィリッポス2世の結婚 はマケドニアの宮廷に様々な問題を生み出したのであった。

  • アレクサンドロスの即位
  • このように前337年以降マケドニアの宮廷では様々な問題が起きていたが、そのような中でも東征の準備は着々と進め られていた。前336年にはアッタロスとパルメニオンを指揮官として先遣隊が小アジアへと派遣され、やがてこの先遣隊に フィリッポス率いる本隊が合流はずであった。しかし前336年にフィリッポスは暗殺されてしまい、彼が小アジアに渡る ことはなくなった。そして先遣隊派遣から前334年春の東征出発までの約2年の間には何が起きたのであろうか。

    フィリッポス暗殺後、まもなく新しい王が選ばれた。形式的には兵員会が招集され、そこに集まった武装した兵士達が 槍を突き上げ喝采をあげて新王が決定することになっていたが、実際には有力貴族たちにより決められていたようである。 王の候補として、まずアレクサンドロスが最も有力であったが、他に候補者がいなかったわけではない。特に有力な 候補としてフィリッポスの兄ペルディッカス3世の息子アミュンタスおり、彼を推す勢力もいたようであるが、王国の 重臣アンティパトロスの支持を受けアレクサンドロスは王として即位した。アンティパトロスはフィリッポス暗殺から まもなく兵員会を開いて王を決めるべきであると主張し、いち早くアレクサンドロスを支持した人物である。

    国内ではアンティパトロスの支持を取り付けたアレクサンドロスであるが、即位後も自分に反抗しそうな勢力は粛清する 必要があった。アレクサンドロスにとり最も危険な勢力は、アッタロスとその一派であった。アッタロスはフィリ ッポスに自分の姪を嫁がせたのみならず、自らはアンティパトロスとならぶもう一人の重臣パルメニオンの娘と結婚する など、マケドニアの宮廷でかなりの勢力を持ちうる存在であり、なおかつ前337年の祝宴でアレクサンドロスと衝突した間 柄でもある。

    アッタロスとその一派は速やかに除かなくてはならないと考えたアレクサンドロスは密使を小アジアに派遣し、 アッタロス暗殺に成功するが、この時パルメニオンは娘の夫であるアッタロスではなくアレクサンドロスを支持する側 に回ったようである。その後パルメニオンの一族が東征軍において重要な地位に多くついていることから、恐らくパル メニオンはアレクサンドロスに協力して暗殺を黙認する代わりに軍隊内での地位をより高めることに成功したのであろう。 こうして、アンティパトロスとパルメニオンというフィリッポス2世の時代以来の重臣の支持を得てようやくマケドニアの 宮廷は安定したのであった。

  • 南北の安定
  • 前336年のフィリッポス暗殺はマケドニアの周辺地域にも影響を与えた。カイロネイアの戦いに敗れて以降、アテナイ やテーバイはマケドニアに服属させられていたがアテナイではフィリッポス暗殺の情報が入ると暗殺者を顕彰すべきと いう決議を採択し、彼の死を公然と喜んだ。またテーバイも反抗の拠点となりつつあった。これらのポリス以外 でも反マケドニアの機運がもりあがり、駐留軍を追い出したりアレクサンドロスがフィリッポスの地位を引き継ぐことを 認めようとしないなどの行動が見られた。これに対しアレクサンドロスは南へ軍隊を動かしテーバイ、アテナイを屈服させ、 さらにコリントス同盟の会議を招集して正式に盟主として全権将軍に選ばれた。

    こうしてギリシアの情勢を安定させるとアレクサンドロスは北へ向かった。北方の情勢もフィリッポスの死後再び緊張 の度合いが増しつつあった。トラキア系のトリバッロイ人やさらに北方のゲタイ人たちがマケドニアに反抗していた。 アレクサンドロスは北方への遠征を進め、山岳地帯においてトリバッロイ人と激しく戦った。さらに北上してゲタイ人とも 戦い、ゲタイ人を屈服させた。ゲタイ人を屈服させた結果、彼らの支援を受けていたトリバッロイ人たちも服属することに なった。一方同じ頃、イリュリア人達もバルデュリスの子クレイトスを中心に連合を組み蜂起した。彼らの蜂起は マケドニア北西部の国境地帯を危険に陥れることになるため、アレクサンドロスはこれを鎮圧すべく急遽西へと向かった。

    アレクサンドロスがイリュリア遠征を行っている頃ギリシアでは反マケドニアの機運が再び盛りあがり、イリュリア遠征 でアレクサンドロスが戦死したという噂が流れると、テーバイでは民衆が駐留軍の基地をおそい、アテナイではデモステネス が反マケドニア演説を行い反マケドニア工作を行っていた。このようなギリシアの情勢がイリュリア遠征を行っている 最中のアレクサンドロスのもとに届くと、彼はほぼ遠征が終結に向かっていたこともあり、すぐさまテーバイを急襲すること を決意した。本国に立ち寄ることもなく約400キロの道のりを2週間たらずで走破してテーバイに到達し、テーバイ攻撃を開 始した。テーバイは奴隷を解放して武器を与え、激しく抵抗したが敗れ、テーバイは破壊され数多くの住民が虐殺され るか奴隷に売られた。テーバイの破壊は他のギリシア諸国に大きな衝撃を与え、反マケドニアの機運は収まっていった。 アテナイも再び恭順の意を示し、こうしてギリシアの情勢は収まっていったのである。こうして北方のバルカン諸民族と 南方のギリシア・ポリス世界を安定させたアレクサンドロスは東方遠征に向かうことになる。


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