少年時代
前336年にフィリッポス2世が暗殺されてまもなく、息子アレクサンドロスがマケドニア王に即位した。そして 即位から2年後の前334年、マケドニア・ギリシア連合軍を率いて東征を開始するのである。では、彼が即位する での状況はどのようなものであったのだろうか
アレクサンドロスは前356年、マケドニア暦でロオオス月(ギリシアのヘカトンバイオン月にあたる)の6日、現在
の暦に換算すると7月20日に誕生した。父親はマケドニア王フィリッポス2世、母親はエペイロスから迎えたオリュンピアス
である。フィリッポスとオリュンピアスの最初の出会いについては、サモトラケ島の密儀に入信し、そこで出会ったと言わ
れている。当時のエーゲ海世界においてディオニュソスやカベイロス、サバジオスといった密儀宗教がひろまっており、サモ
トラケ島ではカベイロスの密儀が盛んだったようである。この密儀にフィリッポス、オリュンピアスが入信した時に出会った
というわけである。
やがてこの両者は前357年にエペイロスとマケドニアの同盟が結ばれる時に政略結婚という形で結婚した。 式の様子などは分からないが、恐らくマケドニアの古式に則ったものであったと思われる。そして両者の間にアレクサンドロス がうまれるのである。生年である前356年当時、イリュリア人がパイオニア人、トラキア人と手を組み、再び国境を脅かし はじめた。この動きにはアテナイもくわわっていた。他方、フィリッポスはカルキディケー半島のポテイダイアに遠征し、包囲 している最中にこのようなことが起こっていた。当時ポテイダイアを包囲していたフィリッポスはパルメニオンを派遣して イリュリア人にあたらせ、これを打ち破ったのであった。
前356年夏、ポテイダイアはマケドニアに攻略され、占領された。ポテイダイアを占領しているフィリッポスの元に3つの知らせが
とどけられたとプルタルコスは伝えている。一つは上述のパルメニオンの対イリュリア戦勝利の知らせ、もう一つはオリンピック
で彼の馬が勝ったこと、そして三つ目がアレクサンドロスの誕生の知らせであった。いずれの知らせもフィリッポスにとっては
喜ばしい知らせであるが、息子誕生の知らせは当然の如く父親フィリッポスを喜ばせた。
これら3つが実際に同時に伝えられたの かは疑わしいが、いずれもこの年の夏にそれほど間をおかずに起こったことであると考えられる。アレクサンドロスの誕生に関して は生まれる前、フィリッポスがオリュンピアスの腹部に獅子の封印をおした夢を見たという話や、ヘビの姿をした神とオリュン ピアスが交わりアレクサンドロスが生まれたという話が作られ、後に広まっていった。後世に様々なイメージが組み合わさって作 られていったのであろう。
アレクサンドロスの幼年期はペラの宮廷で育てられた。そのため母親オリュンピアスの影響がかなり強かったとかんがえられる。
絶えず戦争と政治に明け暮れ、家庭を顧みる暇のないフィリッポスにかわってアレクサンドロスの養育に関わっていたのであろう。
アレクサンドロスにはアキレウスやヘラクレス、ディオニュソスといった神話の英雄達と張り合うような行動が後々みられるように
なるが、オリュンピアスの影響のもとで幼年期を過ごしたことが大きかったようである。
幼年期にオリュンピアスがアキレウスや ヘラクレスと言った王家の祖先にあたる英雄の物語を語って聞かせたのであろう。密儀宗教に入信し、陶酔と興奮の中神々や自然と 一体化し、恍惚の境地にひたることが多かった女性だけに、神話や英雄物語を息子に語って聞かせるようなことは行っていたであろう。 やがてアレクサンドロスには家庭教師がつけられたが、その家庭教師団を統率していたレオニダスは厳格さを持って知られ、 オリュンピアスとは縁戚関係にあったという。別の家庭教師リュシマコスは自らをフォイニクス、アレクサンドロスをアキレウス、 フィリッポスをペレウス王になぞらえていた。空想・情念の世界に生きる母と、その影響の強い家庭教師団に囲まれ、幼年期から 13歳になる頃まで、アレクサンドロスの周りにはいまだ神話と伝説の世界が取り巻いていた。
このように王子アレクサンドロスには母親オリュンピアスの影響がかなり強かったが、フィリッポスもけしてアレクサンドロス の教育のことを考えていないわけではなかった。前343年、マケドニア王アミュンタス3世の侍医ニコマコスの息子で当時41歳の 哲学者アリストテレスを家庭教師として迎え、その教育はペラの宮廷からはなれたミエザにてアレクサンドロスおよび他の貴族の 子弟を集めて行われた。場所の選定については、フィリッポスは後継者としての教育を施すには、やはりペラから離れたミエザのほう が落ち着いて勉学に励めると考えたのであろう。アリストテレスは小アジアのアッソスの町に滞在し、そこで僭主ヘルメイアスの保護下で活動し、その後レスボ ス島のミュティレネへ移って学問に励んでいたところ、 フィリッポスの招きをうけ、それに応じてマケドニアへやってきた。アリストテレスの招聘について、マケドニアとヘルメイアス(アッソス近郊の アタルネウスの僭主で、アリストテレスと親密な関係があった)の密約をみる説もあるが、アッソスなどヘルメイアスの支配領域が ペルシア遠征の橋頭堡には使いにくい場所にある(アレクサンドロスの東征ではアビュドスに上陸しているが、ヘルメイアスの支配拠点 はレスボス島の対岸にある)、フィリッポスがそもそもペルシア征服を前340年代に考えていたかどうかが怪しいことから、ペルシア 侵攻のための密約をみるのは難しいように思われる。
アリストテレスを招くことによって、今までは神話と空想の世界に取り巻かれていたアレクサンドロスがようやく体系的な学問を学ぶ ことが出来るようになった。ここで哲学や論理学、政治学と言った学問のみならず自然科学についても学び、特に後者はアレクサンドロス の興味をひいたようである。動物、植物についてのみならず医学についても手ほどきを受けたと言われ、友人に治療や処方を行ったとい われている。アリストテレスの哲学がアレクサンドロスに直接影響を与えたかというと、その影響の跡はほとんど見られない。 しかし自然への関心、理性的な思考といったものはこの教育を通じてはぐくまれていったのであろう。理性的な面と感情・情念に 従う面がアレクサンドロスには見られるが、前者はフィリッポス・アリストテレスの影響、後者はオリュンピアスの影響とみて よいであろう。
ミエザでの教育は前340年まで続いた。フィリッポスは16歳になったアレクサンドロスをペラへと呼び戻し不在中の国事を任せる
ことにしたためである。前340年、ビュザンティオン包囲戦を開始したフィリッポスからマケドニア王国摂政に任ぜられ、
アレクサンドロスは摂政として国を治め、さらにトラキアのマイドイ人が反乱を起こすと自ら軍を率いて遠征してそれを鎮圧し、
都市を占領してギリシア人を植民すると共にアレクサンドロポリスと名付けた。そして前338年のカイロネイアの戦いでは
アレクサンドロスは父フィリッポスと共に戦い、左翼で騎兵部隊を率いた彼はテーバイ神聖隊と戦い、これを殲滅させた。さらに
戦後処理のためにアンティパトロスとともに使節としてアテナイへ派遣された。
このようにフィリッポスの後継者として、着々と 成長を見せていたアレクサンドロスであるがフィリッポスも彼以外にマケドニアの王位を継げる息子はいないと考えていたであろう。 異母兄弟(通説では兄、ただし弟という説もある)のアリダイオスは宗教儀礼をこなす程度なら可能だが軍事・政治の任には堪えぬ 人物であった。彼にはどうやら知的障害があったようである。そのため、マケドニアの次代国王はアレクサンドロス以外には考え られなかった。アリストテレスを招いて帝王教育をおこなったことや不在の折には国事を任せたことからもそういったことはわかる であろう。このように順風満帆であったアレクサンドロスであったが、前337年に思わぬ災難が降りかかることになる。