苦難の時代

  • アルケラオス死後の混乱
  • 紀元前399年にアルケラオスが暗殺された後、マケドニアはしばらく短命な王が続き、安定しない状態が続いた。まず、彼の後に 王に即位したのはオレステスという彼の息子であった。しかしオレステスは彼の後見を務めていたアエロポスにより殺害される。 その後の王としてパウサニアス、アミュンタス2世、そしてアミュンタス3世という人物が現れる。パウサニアスはアエロポスの 子であるが、アミュンタス2世に関してはアルケラオスの子とする説とメネラオスの子とする説があるなど系統ははっきりしない。 アミュンタス3世はペルディッカス2世の兄弟アミュンタスの孫ということになっている。この時期の王族の系譜に関しては諸説 あり、特定することは極めて困難であるのみならず、王位についた順番もはっきりしない。アミュンタス3世が王となる前の2人、 アミュンタス2世とパウサニアスに関しては同じ時期に権力を持ち、互いに王を称していたようである。

  • 外圧に抗して 〜アミュンタス3世〜
  • アルケラオス暗殺からアミュンタス3世が即位するまでの時期はこのように王位継承を巡る争いが起こっていたが、アミュンタス 2世はエリメイアのデルダスにより殺害され、パウサニアスはアミュンタス3世により殺害されたという。そしてアミュンタス3世 がマケドニア王として紀元前393年より支配した。しかし即位してまもなくアミュンタス3世は危機にさらされることになる。 マケドニアの北方、西方にはイリュリア人というバルカン半島に古くから住む民族がいたが、イリュリア人の中からバルデュリスと いう指導者が現れ、彼のもとでイリュリア人が強大な力を持つようになっていた。

    そして紀元前393-392年頃、イリュリアがマケドニア に侵攻し、即位して間もないアミュンタス3世はマケドニアから追われたのである。イリュリア人に攻め込まれたアミュンタスは、 当初はカルキディケー半島の有力都市オリュントスの協力を求めた。オリュントスに対し、マケドニアとカルキディケー同盟の境界 付近の土地を割譲して助けを求めたのであるがオリュントスは土地をもらいながらもアミュンタスに協力しなかったようである。 アミュンタス3世は結局南隣のテッサリアの支援により王位を回復し、マケドニアへと帰還したのであった。

    しかしその後も王国の維持のためにアミュンタス3世は苦労し続けることになる。アミュンタス3世は隣接するカルキディケー同盟と の間に条約を結んでいる。その内容としては相互防衛協定、木材やピッチの輸出などに関する協定、アンフィポリスやメンデ、アカントス などの都市と勝手に同盟を結ばない事などが含まれている。しかし全般的にオリュントスを中心とするカルキディケー同盟のほうが優位 にたつ条約であった。イリュリア人に攻められたときの対応を見ても、カルキディケー同盟はマケドニアにとり油断ならぬ相手であった。

     さらに西方にはイリュリアが強大な力を保持していた。東のカルキディケー、西のイリュリアと脅威を抱えているアミュンタスは周辺 に友好国を作る必要があった。旧来の友好関係があるテッサリアのほかにトラキアと同盟をくみ、後にはアテナイ人の傭兵隊長として 名高いイフィクラテスとも友好関係を築いた。紀元前380年代、イリュリア人は相変わらず西方で脅威として存在し続け、マケドニアの 隣国エペイロスは彼らの侵攻で大打撃を受けている。信憑性は疑われるが、マケドニアもイリュリア人に侵攻されたとする史料がある。

    しかしこの時代、アミュンタス3世に取り脅威となったのはオリュントスを盟主とする東方のカルキディケー同盟であった。 オリュントスはマケドニアから土地を獲得したが、アミュンタス3世の返還要求に応じず、逆に内陸部へ侵攻し、首都のペラを 含むマケドニアの都市を支配した。そしてアミュンタスはまたしても王国から追われてしまったのであった。このときは 紀元前382年にアミュンタスがスパルタの助けを求め、さらにオリュントスに従わないカルキディケー半島の都市もスパルタの 協力を求めていたことからスパルタがこの地の争いに介入してきた。

    アカントスやアポロニア,マケドニアの要請を受けたスパルタとオリュントスの戦争は3年にもおよび、結局オリュントスは降伏し, オリュントスを中心とするカルキディケー人国家の領域も縮小され,連邦としての形態は解体された。そしてオリュントスに奪われ た領土やかつて割譲した領土はアミュンタス3世の元に戻ったのであった。その後もアミュンタス3世の王国維持のための苦闘は続 き、紀元前370年代には海上同盟を結成していたアテナイと同盟を結び、アンフィポリス奪回を支持したり、テッサリアとの友好関係 を維持するなど、様々な外交努力を展開することとなった。

  • フィリッポス登場への前奏
  • 紀元前370年にアミュンタス3世が死ぬと、その後は彼の息子アレクサンドロス2世が王位を継いだ。彼はイリュリアと和睦 して西方の情勢を一時安定させた。さらに南のテッサリアに支援を求められたアレクサンドロスは出兵し、ラリサの町を占領した。 しかしこれに対してラリサはアレクサンドロスの支配から脱しようとして当時有力ポリスとして発展していたテーバイの力を借り、 テーバイのペロピダスがテッサリアへとやってきた。

    一方、国内では王位を奪おうとするプトレマイオスという王族がペロピダス の力を借りようとした。一方アレクサンドロス2世もペロピダスに調停を依頼した。結局テーバイのペロピダスによる調停は成功 し、争いはいったん収まった。このときに人質として貴族の子弟30人とともに王の弟フィリッポス(のちのフィリッポス2世)が テーバイに送られたという。この出来事は紀元前368年頃のことであった。

    しかしその後アレクサンドロス2世は祭りの最中に暗殺されてしまう。暗殺に関与したのはプトレマイオスであった。そして 彼が王位につき、その後3年ほど王国を支配する。しかしアレクサンドロス2世の暗殺後、紀元前367年頃、王位を狙うパウサ ニアスという王族が王位を狙って挙兵し、王国は混乱していた。このときにアテナイ人傭兵隊長イフィクラテスに助けを求め、 イフィクラテスもこれに応じてパウサニアスを追い、マケドニアを助けたという。

    一方同じ頃、テーバイのペロピダスがマケ ドニアへ侵攻し、このときにマケドニアはテーバイへ協力することを約束させられ、新たに50人の人質が送られたという。その 後紀元前365年にプトレマイオスが死に、ペルディッカス3世が王となった。そしてこの年にフィリッポスもテーバイ から帰国した。

    ペルディッカス3世はテーバイと友好関係を維持する一方、反アテナイ的な政策を進めていった。長年にわたってアテナイ が奪回しようとしているアンフィポリスを支援し、守備隊を置いた。また木材輸出などで収入を増やしていった。さらに 長年の懸案となっているイリュリア問題を解決しようとした。兄のアレクサンドロス2世の頃からマケドニアはイリュリア に金を送って平和を維持していたが、そうした政策を一転し、攻勢に出ようとして軍を集めてイリュリアへ遠征した。

    しかし 結果は4000人の兵士とペルディッカス自身の命が失われる大敗北であった。そして王国の西部地域がイリュリアの支配下 に入ってしまった。ペルディッカスの死後、王国周辺のイリュリア人やパイオニア人が王国を脅かしたのみならず、王位を 狙う王族たちの策動を外国勢力も支援した。このような困難な状況下で一人の男が王として即位し、難局を切り抜けてや がてギリシア世界の覇権を握ることになる。


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