ギリシア悲劇を上演する


  • 上演の日程

    1. エラペーボリオーン月(今 の3 月中旬から4月中旬)に大ディオニュシア祭が行われる。この祭の間に悲劇の上演が 行われる。祭礼は前夜祭も含めて7日間にわたる。紀元前5世紀後半の日程では、祭礼の7日間のうち4日間悲劇の 上演に当てられている。

      エラペーボリオーン月の8 日・・・ プロアゴーン(悲劇上演の前夜祭)
       劇場の東隣のオーデイオン(音楽堂)にて、市民を前に作者・俳優・合唱隊・コレーゴス(プロデューサーのよう なもの)がお披露目をする。あらかじめ作品や上演順を知ることが出来た。時には上演予定作品の主題説明まで行わ れた。

      同月9日・・・祭礼初日
       朝方のポムペー、夕方のコーモスと2つの行列が行われる。ポムペーはおごそかなもの、コーモスは陽気な騒々し いものであった。犠牲式。成年男子5組、少年5組によるディチュランボス(ディオニュソス神賛歌に由来する合唱 叙事詩)の競演。

      同月10日・・・喜劇上演
       喜劇5篇が上演。ペロポネソス戦争中は行われず、その代わりに悲劇上演後にそれぞれ1篇ずつ計3篇上演された。 なお、上演作品は新作に限られた

      同月11日〜13日・・・悲劇の競演
       3人の悲劇詩人による悲劇の競演。一人が一日に悲劇3篇、サテュロス劇1編を上演した。

      同月14日
       集会。審査と賞品授与。祭礼期間中の不祥事処理

    このような日程で行われるディオニュシア祭のかなりの部分が悲劇に当てられている。悲劇の上演は3人の詩人により 行われたのであるが、その選考はアルコンの審査により行われた。そして応募作品は新作に限られていた。

    出場が決まってから詩人たちはアルコンに合唱隊の提供を要請し、アルコンがそれに応じて各詩人に割り当てるととも に市民の中からコレーゴスを任命する。コレーゴスのつとめは三段櫂船奉仕(トリエラルキア)とならぶアテナイの公 共奉仕の一つで、これに選ばれることは名誉なことであったが、負担も大きく、一人の悲劇詩人の4篇の劇を上演する ために投じた金額は3000ドラクマほどで、これは当時アクロポリスの神殿建設の石工の日当が1ドラクマであったことを かんがえると非常に大きな出費であった。俳優に関しては当初は詩人に任されていたが、やがて第一俳優に関しては国 家による割当制となった。第二、第三俳優に関しては第一俳優が各自の好みと責任で選ぶことが出来た。俳優に関する 費用は国庫負担であった。

    俳優と合唱隊が決まると早速練習に入る。一人の詩人につき4週間の練習期間が与えられ、練習場所はオーデイオンを 用いた。オーデイオンが建設される前は劇場を用いたとも言われるが不明である。そして(現在の暦で)12月末から 3月までの間、アクロポリス東南麓のディオニュソスの神域は一般市民立ち入り禁止となっていた。また、合唱隊とし て練習に励む間は軍役も免除されたが、これは悲劇の上演に参加することは公務であったためである。

    そして祭礼当日、事前の抽選で上演順を決め、その通りに悲劇の上演が開始された。ギリシア悲劇においては登場人物 が多くても、俳優の数は3人でありつづけた。3人の中でもランクがあり、第一俳優は主役級としてほとんど一つの役 を演ずるのに対し、第三俳優は複数の役を次々に演じ分けなくては行けなかった。これはギリシア悲劇が仮面劇だった からこそ可能になったことであるが、一人でいくつもの役を演じることで第三俳優は第二、第一俳優へとあがっていっ たようである。また劇によっては台詞はないが舞台上に登場する黙り役もあった。子役が必要になる劇もあったが、お そらく台詞は別の場所で読んでいたのであろう。

    上演時間は、幸運にも一日に上演された3篇がまとめて残されている「オレステイア」三部作から判断すると、「アガ メムノーン」が2時間ほど、「コエーポロイ」が1時間半、「エウメニデス」が1時間半、合計5時間である。これに 悲劇より少し短いサテュロス劇が上演されることから、1日で6時間程度の上演時間を取ったようである。これに舞台 装置の取り外しなどの所要時間も加わる。休憩時間はおそらく悲劇3篇上演中にはなかったと考えられている。悲劇上 演後にサテュロス劇があるが、その間に休み時間があったのではないか。劇場において観客は家から持ち寄ったか場内 で売り子から買った食べ物を食べながら観劇していた。また祭礼の最中とはいえ観客はかしこまって劇を見ていたわけ ではなく、喝采やヤジ、劇中の飲食などがあり、かなり騒々しいなかで劇を見ていたようである。結局悲劇上演にかか る時間は6時間から7時間程度であった。なおペロポネソス戦争中はその後に悲劇一本も上演され、さらに時間が長く なるが、それでも日没まではまだ余裕のある時間にすべての劇の上演は終わったようである。

    3日間の上演が終わると審査が最終日に行われ、その年の優勝者が決められる。審査員は一般市民から選ばれた人々で、 アテナイの10部族制をもとに各部族が審査員候補を複数推薦し、その推薦名簿が壺に封入され、アルコンが壺から一 つずつ名札を引き出して決定した。審査員10人が投票するが、開票されるのはその中から無作為で選ばれた5人の票 であった。ちなみに碑文の記録が残されており、劇上演記録と呼ばれる碑文の断片には紀元前420/19年から前142/1年に いたる悲劇・喜劇の入賞者リストが載せられている。またディオニュシア祭優勝者年表と呼ばれる碑文の断片には紀元 前473/2年から前329/8年までの優勝者が記録されている。また古代の辞書や悲劇作家の伝記にも優勝回数が記録されて いる。そうした資料を基にギリシア三大悲劇詩人の優勝回数をみていくと、アイスキュロスが13回、ソフォクレスが24回、 エウリピデスが5回となるとされる。しかしこれは後世の評価と必ずしも一致せず、残存作品の数で見ると優勝回数の最 も少ないエウリピデスが一番多くの作品を現在にまで残している。紀元前4世紀になってエウリピデスの人気が高まった ためであろう。


  • 上演に関わる事柄
  • (俳優)

    今までは悲劇の上演までの過程を負ってきたが、そこに関わる俳優たちはどの様な変化が見られたのだろうか?前449年 には俳優の演技力を審査対象とした最優秀俳優賞の選定がおこなわれ、第一俳優のなかから最優秀俳優が選ばれた。審査 の際には、基準ははっきりしないが音声の美しさ、明晰さ、通りの良さ、身振り、立ち居振る舞い、動き、役柄への適応 性が評価されたのであろう。なお、はじめの頃は詩人が役者をかねることもあり、ソフォクレスは当初自ら舞台に立って いたが声が細すぎて断念したという。ちなみに前449年を境として詩人と俳優が分離し、俳優の職業化が進んだという。詩 人から独立して俳優たちの中に人気実力を高めたものが現れるが、そうした俳優たちの振る舞いには少々目に余るものが あった。紀元前386年以降、三大悲劇詩人らの旧作の再演が認められるようになると俳優が勝手に書き換えるという自体が 頻発し、リュクルゴスがテキスト校訂を命じて決定版が出るまでそれが続いたという。紀元前3世紀になると俳優がギルド を結成するにまでいたった。また人気俳優は外交使節にも選ばれるほどであったという。

    (劇場)

    ディオニュソス祭の時にはディオニュソス劇場で悲劇の上演は行われていた。現在は劇場はかなりの部分が失われている上、 残っている部分もローマ時代の改築後の劇場である。かつての劇場の姿は壺絵や詩人のテキストから想像するしかない。 ディオニュシア祭の時に悲劇が上演されるようになったのは前534年のことであるが、当初はアゴラに仮設スタンドを建てて そこで劇を上演したようである。しかし仮設スタンドが壊れるという出来事があったらしく、また常設の上演場を求める機運 が盛り上がっていたこともあり、前5世紀へ変わる頃にディオニュソスの神域に上演場所を移した。当初は上演場所に座席も ついていなかったが、前5世紀初めにベンチや楽屋がしつらえられた。その後前460年スケーネーが建設されて楽屋兼舞台と して機能した。これにより登場人物を増やすことができるようになった。以前よりも俳優の変装が容易になったためである。 また回転舞台や背景がなどの舞台装置も整備されていく。

    さらにペリクレスが前442年にオーデイオンを建設したときに劇場も改修された。壁やベンチが石造りになり起重機が舞台装置 として用いられるようになる。そうしたものが作られていたためにギリシア悲劇では「デウス=エクス=マキナ(機械仕掛けの 神)」というものを登場させることが出来たのである。これを使うことは作品評価という点ではあまり評判は良くないが、舞 台装置の発展の一幕としてみることは出来る。さらにニキアスの和約が結ばれた頃にも改修が行われた。そして劇場の整備がも っとも進み、頂点に達したのは紀元前4世紀末のリュクルゴス時代である。財務長官として国家財政を切り盛りした彼はディオ ニュソス劇場の大改修に取り組んだ。そのさいに従来木造だったスケーネー、オルケーストラー、観覧席などすべてが石造りに なった。こうして悲劇を上演し見物するための半永久的な設備が完成した。この時期の収容人員は1万4000人から1万70 00人とも言われるが、もっと入ったとも言われる。

    (入場料、観客)

    ギリシア悲劇の観劇というと、「観劇手当(テオリガ)」の存在がよく取り上げられる。かつては全員共通で2オボロスの入場 料であったが、これを払えぬものには国庫から支給したという。これはペリクレスが始めたものであった。チケットに関しては 青銅製と鉛製のチケットがあったようである。なお観客は市民はもちろんのこと、外国人や女性や子供、奴隷も観劇を許されて いたようである。このように様々な観客が集まってくるため、事前にプロアゴーンにおいて作品内容についてかなり詳しい内容 を知らせる必要があった。


    このようなギリシア悲劇の上演はアテナイ民主制の盛衰とともにあった。ギリシア悲劇の上演・観劇は民会への参加、裁判への 参加と同様の国家行事である。また悲劇の上演には教育的な効果があったと最近の研究では言われるようになっている。劇の上演 を見ること、あるいは役を演じることで劇を見たり演じたりする前の状態とはまた違う認識を得ることになるということである。


    (参考文献:ギリシア悲劇全集(岩波書店)別巻、タプリン、O.「ギリシア悲劇を上演する」(リブロポート))
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