史記のウソ・ホント?


秦の始皇帝により作られた巨大建造物には始皇帝陵と阿房宮があります。この2つの大土木事業の産物は司馬遷の「史記」に もその様子が書き残され、多数の労働力を投下して作られたと言います。しかしこれらの建造物に関して、司馬遷の記述があて はまるものとまったくあてはまらないものという2つの全く異なる結果が最近の考古学研究の成果として現れてきました。

まず始皇帝陵のほうから話を進めると、司馬遷の史記によると陵墓の地下には巨大な宮殿が築かれ、水銀の川や盗掘への防備 が存在するという記述があります。ちなみに文化大革命の最中に偶然発見された秦の兵馬俑は始皇帝を守るための軍団として 当時の秦の兵士たちの姿を映して作り上げ、地下に埋められたものであるといわれています。始皇帝陵の発掘は費用がかかる ことや保存の問題があることから実現はきわめて困難ですが、陵墓を電波調査やボーリング調査をおこなうことでどのような 状況にあるのかを知ることは出来るようです。そして、今回は中国陜西省省文物考古研究所と中国地質調査局が、電気探査など のハイテク技術で調査した結果、墳丘の地下約30メートルの地点に巨大な「地下宮殿」や墓室が存在することを11月28日までに 確認したそうです。地下宮殿の存在はこれまでのボーリング調査などで予測されていたのですが(水銀が含まれていたらしい)、 具体的な規模や構造が判明したのは地表から電流を地中に流し、地下の構造物や地層の変化で異なる導電率を計測する方法など 地球物理学のハイテク技術を応用した電気探査によって初めてわかったようです。

今回の調査では地下宮殿は東西170メートル、南北145メートルの規模で、中央には石灰岩でつくった墓室(東西80メートル、 南北約50メートル、高さ15メートル)があると考えられています。また、地下宮殿には大量の水銀が流し込まれていたことも 明らかになり、これによって司馬遷の史記にみられた始皇帝陵について「水銀の川や海がある」 ということが裏付けられました。墓室の周囲には厚さ16〜22メートルの頑丈な壁が巡らされており、内部の墓室は壊れていない との測定結果もています。

このように、始皇帝陵に関しては司馬遷の記述はきわめて正しいことを言っているようですが、一方で全く異なる結果がでてきた のは阿房急に関する記述です。司馬遷の記述に依れば阿房宮は秦が劉邦に降伏し、その後鴻門の会の後にやってきた楚の武将、 項羽によって略奪されて焼き払われ、3ヶ月にわたって燃え続けたということになっています。しかしここ1年にわたり行われた 調査の結果、阿房宮は項羽によって焼き払われてはいなかったようです

約1年間にわたって20万平方メートル以上を調べたが、大量の灰や焼けた土など火災があった痕跡は発見されなかったということ から、阿房宮が項羽によって焼失した事実はなかったことになるようです。また、今回の調査では、始皇帝在位中に完成したとさ れる阿房宮の前殿部分の基本構造や範囲など輪郭が初めて判明し、前殿の土台は東西1270メートル、南北426メートルで、総面積は 54万1020平方メートルにもおよぶ宮殿だったようです。司馬遷にとって秦の歴史はかなり近い時代のことで、それにかんして全くの ウソを書く理由はいったい何なのでしょう?楚との争いに勝利した劉邦が建国したのが漢であり、司馬遷は漢の武帝に使えていた 歴史家であることから、漢王朝の正統性を主張するような内容にはなりやすかったのだろうとは思いますが、どこでどうやったら 項羽が灼いたら3ヶ月も燃え続けたなんてなったのでしょう・・・。

ただし、始皇帝陵にせよ、阿房宮にせよ、どちらも現在考古学的な調査が進行中の遺跡であり、全貌は未だにわかっていないという のが現状です。1974年に兵馬俑坑が発見されてから30年たちますが、現在も兵馬俑坑は発掘が進められている最中であり、新たな発 見がなされています(彩色が残っている状態の兵馬俑も発見されている)。また、始皇帝陵周辺からは兵士だけでなく、文官の俑や 青銅製のツルなども発見されています。地下に巨大な宮殿を建造して、そこに地上の宮廷と同じような物を再現しようとしたらしい ということがわかってきたものの、そのすべてを速やかに発掘すると言うことは難しいですし、下手に焦って掘り返すことは遺跡の 保存上あまりよくないですから、気長に成果が上がるのを待ち続けた方がよいようです。


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