メムノンとスピタメネス
〜アレクサンドロスと戦った人々(2)〜

アレクサンドロス大王が前334年にマケドニアを出発し、治世のほとんどを遠征に費やした。そしてその間に ペルシア帝国を滅ぼし、広大な領土を征服した。その過程でアレクサンドロスは様々な国家や都市、民族と 戦いを繰り広げた。そして、その中にはアレクサンドロスを相手に互角の戦いを繰り広げたものたちも存在する。 ここでは、東征序盤にアケメネス朝のギリシア人傭兵隊長としてアレクサンドロスに対抗したメムノンと、前329年より 始まる中央アジアの反アレクサンドロス闘争を指導したスピタメネスの2人について取り上げていくことにする。

  • メムノン(?〜前333)
  • アレクサンドロスの東征序盤、彼に対抗したアケメネス朝ペルシア指揮官の一人メムノンはロドス島出身のギリシア人 で、傭兵隊長としてアケメネス朝の貴族アルタバゾスに仕えていた人物である。彼がいつ頃からアルタバゾスに仕えるよう になったのかは定かではないが、前360年代にはアルタバゾスの下で兄のメントルと共に傭兵隊長として働いていたと考え られる。

    前366年から前360年まで続いた小アジアの太守達によるアルタクセルクセス2世ムネモンに対する反乱(「太守反乱」) の間の出来事に、反乱鎮圧軍を率いていたアルタバゾスがアウトプラダテスに捕らえられたが(前362年頃?)、その 事に関する記述にメントルとメムノンがアルタバゾスと姻戚関係にあったことが述べられている。また、後の史料で明らかに なるが、メントル、メムノン兄弟はトロアス地方(ペルガモンや有名なトロイ(イリオン)がある)に所領を与えられていた。 所領が彼らに与えられたいきさつについて、一説には父親がヘレスポントス・フリュギア太守であったアルタバゾスは成年に 達した(前366年頃)あと、後見の叔父アリオバルザネスと世襲太守職継承を巡る問題から対立し、それが内戦にまで発展した とき、義兄弟であったメントル、メムノン兄弟がアルタバゾスを助けてヘレスポントス・フリュギア太守の継承と領土保全を 助けたためにトロアス地方を所領として与えられたという。

    姻戚関係により強く結びつき、アルタバゾスの下で傭兵隊長として働いていたメントルとメムノンは前353年にアルタバゾスが ペルシア王に対して反乱を起こした時にもこれに従って戦った。結局この時の戦いはアルタバゾスの敗北に終わり、メントルは エジプトへ、メムノンとアルタバゾスはマケドニアに亡命した。メムノンとアルタバゾスがマケドニアに滞在した期間は諸説有 るが、自らの目で当時急速に台頭していたマケドニアの国情を見ることが出来たであろう。その後メムノンとアルタバゾスは ペルシアによるエジプト征服に功を挙げて信頼を回復したメントルのおかげか、特にとがめられることもなく帰還することが できた。その後のメムノンはメントルが死んだ後、兄の妻であったバルシネと結婚したほか、彼の地位を引き継いで小アジア 沿岸部一帯の指揮権を託された。。その後のメムノンの活躍については前336年以来、パルメニオン率いる小アジア先遣隊と 戦って、これと善戦し、優位に戦いを進めていたことが知られている。

    その後のメムノンの活動はサイトの別の箇所でも色々と触れているが、東征軍が侵入してきたときに焦土戦術を主張したことが まず知られている。この時は結局焦土戦という提案は受け入れられることはなく、グラニコス川の戦いでは彼はギリシア人傭兵 部隊を率いて戦うことになる。グラニコスの戦いで敗れた後、戦場を脱出し、ハリカルナッソスに入ったメムノンはこの都市の 守備を徹底的に固めてアレクサンドロスを迎え撃った。なお、ハリカルナッソスにはいる前にメムノンは妻子をダレイオス3世 の手許に託し、忠誠の保証としたという(それ故にイッソスの戦いの直後にバルシネがペルシア人貴族らとともに捕虜となるの である)。ハリカルナッソス包囲戦では、都市の守りを強化し、さらに市街地に火を放って各地に兵力を分散して抵抗するなど、 非常にねばり強くマケドニア軍に立ち向かい、やがてコス島へと入った。

    グラニコス川の戦いの後、ダレイオス3世は全艦隊および小アジア沿岸部の軍勢の指揮官としてメムノンを任命していたが、前 333年春になるとメムノンは本格的に活動を開始する。エーゲ海においてメムノン率いるペルシア艦隊の反撃が開始されキオス島、 レスボス島の大部分(ミュティレネ以外)を支配下におき、キクラデス諸島を服属させ、エウボイア侵攻の噂が流れてエウボイア は恐慌状態に陥った。さらにメムノンはミュティレネ包囲を開始するがその最中の前333年夏に病死した。一説にはメムノンが病死 してペルシア軍の反攻作戦に打撃を与えて戦略変更が起こったとする考えもあるが、実際にはメムノンの後継者達はメムノン以上 に活発な活動を展開していったのであった。

  • スピタメネス(?〜前328)
  • 東征開始から4年でアケメネス朝ペルシアを滅ぼしたアレクサンドロスであったが、その後の彼は東方諸州の平定に苦心すること となる。前330年秋には東征軍の背後でアレイア太守サティバルザネスが反乱を起こすなど、東方の諸州は不安定な状態であったが、 特に大規模な武装蜂起は前329年にソグディアナを中心に展開された。この時に武装蜂起を指導したのがスピタメネスであった。

    スピタメネスはバクトリアの土着豪族であり、ソグディアナの武装蜂起以前のことはほとんど知られていない。歴史上彼の名前 が最初に現れるのは、ダレイオス3世を殺害したベッソスを裏切り、彼を捕らえたという出来事である。この件に関して史料でも 描き方が微妙に違いがある。ある史料ではスピタメネスは捕らえたベッソスをアレクサンドロスに引き渡す用意があることを 知らせ、ベッソスの身柄確保を聞いたアレクサンドロスがプトレマイオスを派遣してベッソスの身柄受け取りに向かわせるが、 そこには少数の兵士により監視されたベッソスがいただけで、スピタメネスらはいなかったという描き方がされている。一方で スピタメネスが実際にアレクサンドロスのもとにベッソスを引見してきたという描き方もなされている。プトレマイオスが部隊を 率いて行ったという記述については、その描写がダレイオスの死と酷似していることなどから、プトレマイオスによる創作が伝え られているが、いずれにせよスピタメネスはベッソスを裏切ったと言うことだけは確かであろう。

    実際にどのようにして身柄が確保されたのかはさておき、ベッソスはマケドニア軍に引き渡されてバクトラへ送られ、処刑された。 しかし、実はベッソスを捕らえて引き渡したスピタメネスがその後アレクサンドロスに対する武装蜂起を指導することになるので ある。ベッソスもスピタメネスも、王を捕らえて身柄を拘束する点では同じ行動を取ったが、ベッソスがダレイオスを切り札とし て活用する間もなくマケドニア軍に追撃され、結局ダレイオスを殺害してしまったのに対し、スピタメネスはベッソスを捕らえて 引き渡し、アレクサンドロスの行為や信頼を得ることに成功した。ベッソスを引き渡して帰順した者に対しては身の安全と報償が 約束されたこともあり、帰順した者達は協力的な態度を取ったようである。しかしそれは表向きのポーズにすぎなかったことがや がて明らかになるのである。

    そして、マラカンダが無血開城するなど当初は不気味なくらいに静かであったソグディアナにおいて、大規模な武装蜂起が始まる のである。当初は糧秣を集めに行った少数のマケドニア軍が土着民におそわれ、その討伐に向かった軍勢の前には岩山に立て籠もる 3万の土着民が立ち向かった。これはアレクサンドロス始め武将達が負傷するほどの激戦となった。そして次に、最果てのアレク サンドレイアの建設に取りかかった頃にスピタメネスが反乱を起こすのである。スピタメネスは表向きアレクサンドロスと協調する 姿勢を示しており、ソグディアナで民衆が蜂起したときにはアレクサンドロスからその説得を任されたが、そのスピタメネスが 裏では大反乱を組織していたのである。そして遂に彼はアレクサンドロスに対して反乱を起こし、彼の軍勢がマラカンダを包囲し、 救援に向かったマケドニア軍を壊滅させた。その後各地で反アレクサンドロス闘争が勃発し、アレクサンドロスは反乱鎮圧に追わ れることになる。

    スピタメネスが大規模な反乱を組織することが出来た理由としては、彼個人の才能もあるが、バクトリアの名門(一説にはスピタ メネスの一族はスピタマ家の類縁に属し、預言者ザラツシュトラとも血縁でつながる)であったことも関係していると思われる。 指導者としてのカリスマ性、スキタイ系、バクトリア系の騎兵戦力を主としたゲリラ戦と奇襲攻撃の活用、そして彼らの武装蜂起 を支持する現地社会、こうしたものを活用しながらスピタメネスはアレクサンドロスに立ち向かっていった。これに対するアレク サンドロスの対応は、征服地の徹底した破壊と虐殺や、遊牧騎馬民族の戦力への編入によって対抗した。そしてスピタメネスは 前328年にクラテロスの部隊に敗北した後、勢力が衰え、仲間の裏切りにより殺された。スピタメネスは倒れたが、ソグディアナ における抵抗運動は彼の死によって終わることはなく、完全に制圧するまでにはさらなる月日を要するのである。


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