ダレイオス3世とポロス
〜アレクサンドロスと戦った人々(1)〜

アレクサンドロスの東征期間中、大規模な会戦が行われたのはアケメネス朝ペルシアを相手に戦ったグラニコス川の戦い、 イッソスの戦い、ガウガメラの戦い、そしてインド侵攻後に起こったヒュダスペス川の戦いの4つである。これら大規模 な会戦を戦ったアケメネス朝ペルシアの王ダレイオス3世とインドの諸王の一人であったポロスについて紹介していく ことにする。

  • ダレイオス3世(前380年頃〜前330、在位前336〜前330)
  • アケメネス朝の領土へと攻めてきたアレクサンドロスとイッソス、ガウガメラの2つの戦いで相まみえることになった ダレイオスは前380年頃に生まれ、その後アルメニア総督を務め、前336年に王位についた。彼が王になる2年前にアルタク セルクセス3世が宦官バゴアスに毒殺され、バゴアスは王の息子アルセスを王位につけるが、そのアルセスもバゴアスによ り殺され、その後新たに王位につけられたのがアルタクセルクセス2世の兄弟の子孫であるダレイオスであった。宦官バゴ アスはエジプト遠征で指揮を執ったこともある人物で、ペルシアの宰相ともいえる千人隊長とも呼ばれており、当時の宮廷 では王権をも左右しうる実力者であった。しかしダレイオスはバゴアスの傀儡となることはなく、先手を打ってバゴアスを 毒殺し、王位を確保することに成功した。この間の事情については様々な解釈があり、バゴアスがダレイオスの支持者であ ったとする説もあるが定かではない。また、ギリシア人、ローマ人の手による史料では彼が王族でなく、不当なやり方で王位 を奪い、無定見で、臆病な人物という描かれ方がなされている。しかしこれらの見方はアジアに対する偏見によりゆがめら れている可能性が大きい。

    ダレイオスが即位して間もなくアレクサンドロスの東征軍の侵入を受け、自ら大軍を率いて東征軍を抑えようとしたが、 アレクサンドロスの背後をとりながらイッソスの戦いで敗北し、その後総力を挙げて望んだガウガメラの戦いでも敗れて さらに東方へ逃げていった。ダレイオスはエクバタナで再び体勢を立て直そうとしたが、アレクサンドロスが追撃してくる とさらに東へ向かって東方諸州を拠点として抵抗しようとした。しかしその道中でベッソスなどの部下の裏切りにあい、前 330年7月に殺害された。

    ペルシア王としてダレイオス3世と呼ばれているが、かれは即位前と後で名前が変わっている。従来、彼の名前はギリシア、 ローマ系の史料に登場するコドマンノスとされていたが、バビロン天文日誌のアケメネス朝時代の文書から、アルタシャタ であることが明らかになった。彼に関してはアリアノスが「戦争に関しては誰よりも臆病で思慮に欠ける」という評価を下 していたり、前述のように出自や即位の経緯に関してかなり否定的な描かれ方がされる一方で、彼に対して肯定的な伝承 も存在する。ダレイオスは立派な背の高い人物で、高潔で温厚な人柄、温厚で親しみやすい気質の持ち主として紹介される ことがある。否定的な伝承がある一方で、このような伝承も伝わっていたことが明らかになる。

    またバビロンで作られた「王の予言」という新バビロニアからアレクサンドロス以後までのバビロンの支配者を取り上げた 史料がある。そこではダレイオスがバビロニアの神のご加護を得てバビロンへ帰還し、国土を平和に導くというような事が 述べられているという。実際に無能な人物であったならば、一部とはいえダレイオスを待望するような勢力が現れるとは考え にくい。ダレイオスが臆病であったとする根拠となるイッソスやガウガメラでの逃亡に関しても、古代ペルシアの王権観、 宗教観、宇宙観といった点からそれはやむを得なかったとする説も出されている。戦士として戦うことを期待されつつ、世界 の秩序を体現・維持するためには死ぬことは許されないというきわめて困難な状況におかれていたようである。権力強化の ための王権思想がかえって戦場では足枷となってしまったのであろう。

  • ポロス(?〜前317年)
  • ヒュダスペス川の戦いでアレクサンドロスと戦ったポロスであるが、「ポロス」は個人名ではなく、統治者の称号であったと 考えられており、彼の本名や生年は不明である。彼の支配領域はヒュダスペス川からアケシネス川の間であり、この肥沃な地 を支配する有力者であった。彼は歩兵5万と騎兵3000、1000両を越える戦車と130頭の象をもち、一族郎党、近隣の同盟者と結 んで支配を強化したと言われている。ただし強大な敵を打ち破ったと言うことを示すための誇張が含まれているとおもわれ、 実際にはそれほど強力な軍勢を持っていたわけではなかったと考えられる。周囲の同盟者に関してもヒュダスペス川の戦いで はアビサレスしか望めない状態にあった

    アレクサンドロスがインドへ侵攻してきたとき、インダス川流域に割拠するインドの諸侯たちは互いに反目する関係にあった。 ポロスの場合、隣接するタクシラ王との長年の仇敵関係がそれにあたる。タクシラ王はアレクサンドロスに臣従したが、 ポロスはアレクサンドロスの帰順勧告に対して王国に入ってきたら武装した上で参上するというような返事を返して服属する ことを拒んだ。そしてヒュダスペス川を挟んでアレクサンドロスの軍勢とポロスの軍勢が相対することとなったのである。 ポロスとアレクサンドロスの軍勢を比べると、アレクサンドロスの軍勢の方が数の面では優位に立っていたという。ヒュダスペス 川の戦いではアレクサンドロスの巧みな用兵の前にポロスは敗北を喫することになるが、この時ポロスは巨大な象にまたがって 奮戦したが、やがて傷つきとらえられた。その時のポロスの対応はアレクサンドロスに対し「王として扱ってほしい」といった と伝えられる。そして戦いの後アレクサンドロスは彼の所領を安堵し、統治権を保証したのであった。

    ポロスはアレクサンドロスに降伏した後、王国の支配権を認めてもらうと共に、アレクサンドロスがポロスの下を出発する際には さらに支配領域が増やされたという。戦闘に置いて奮戦し、降伏した後も王として扱えと毅然とした態度を示したポロスに対する アレクサンドロスの寛大なる処置は、実際の所は政治的な意図が働いていたようである。インダス川流域には様々な諸侯がおり、 その関係も複雑であったが、ポロスの支配権を安堵することで、この地域においてバランスを保とうとしたのである。すでに タクシラ王がアレクサンドロスに服属していたが、そのタクシラ王と長年の仇敵関係にあるポロスを残すことによって、特定の 勢力がインドで強大な力を持つことが防げると考えての処置であったという。アレクサンドロスはその両者に和解を斡旋し、 表向きは和解が成立したようである。その後は両者のとうちが共存する状態が長く続き、アレクサンドロスの死後、前323年と 前320年の統治体制再編の時もそれは変わらなかった。しかしポロスは前317年にインド駐留マケドニア軍を統括するエウダモス によって殺害された。

    ポロスは身の丈2メートルを超える巨躯の持ち主であり、戦闘で奮戦し、傷ついた後も王として毅然とした態度を崩すことが 無かった人物として描かれている。アレクサンドロスと戦った王として、アレクサンドロスを前にして戦線離脱したダレイオス が臆病者として扱われるのに対してポロスは勇敢なる人物として対比されているように思える。また、勇猛果敢で強力な敵に 勝利したという描き方をすることで、それを打ち破り敗者に対する寛容な態度を取ったアレクサンドロスの偉大さが際だつと いう効果を考えて描いたのかもしれない。


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