アテナイの「ペスト」


紀元前431年、当時のギリシア世界の二大勢力アテナイとスパルタの間でペロポネソス戦争が勃発し、以後ギリシア全土を巻き込む大戦争として27年 にわたって続きました。アテナイ、スパルタ双方とも同盟諸ポリスとともに戦ったこの戦争は、最終的には力尽きたアテナイが降伏して集結しました。その後紀 元前4世紀にはいるとギリシアではポリス間戦争が以前より激しくなり、ポリス内部でも貧富の差の拡大がみられるなど、社会の変質が見られるようになりま す。ギリシアの転換点となったこの戦争に関しては同時代人トゥキュディデスの詳細な記述が残されており、それを通じて私たちはこの戦争の様子を知ることが 出来ます

トゥキュディデスの記述の中には紀元前430年にアテナイで大流行した疫病に関する記述も含まれていて、そこには病気に感染した人の症状の進行具合 が克明に記録されています。その記述によると、まず症状は頭痛と目の炎症に始まり、やがて舌と咽頭の炎症が起こります。さらにくしゃみが出始め声がしわが れ、胸が痛み、咳が出ます。さらに胃腸障害が起こり、吐き気と下痢に悩まされけいれんが起こります。やがて皮膚には小疱ができて高熱を出し、喉の渇きに苦 しみ、高熱のために死亡してしまいます。運良く生き残った人も手足や性器の欠損、失明、記憶障害という後遺症が残ってしまいました。

この病気の感染力は極めて強く、診察した医師も皆感染して発症、やがて死亡しています。看護した人も同様で、感染して次々に病に倒れていきました。 ただし、一回感染して発病した後に治った人は同じ病気にかかることはなかったようです。また、この病気はアテナイに置いては流行したものの、アテナイのあ るアッティカ地方に侵攻したスパルタにはさほど広まらなかったようです。紀元前430年に流行した後、再び紀元前427年に流行し、このときも多数の死者 を出したと言われています。この病気が一体何か、病気を特定しようとする試みは19世紀以来続けられてきました。そして様々な説が出されてきました。従来 はこの病気はペストであるといわれてきたのですが、他にも天然痘、デング熱、麦角中毒、はしか、発疹チフス、さらには現代では既に死滅した謎の病原体によ るものという説まで出されてきています。結局病気の特定は今となってはほぼ不可能と行っても良いのでしょう。

病気の種類はさておいて、当時のアテナイは病気が発生・流行するにはうってつけの条件を備えていました。なぜなら、当時アテナイはペリクレスの立て た戦略に従い、郊外に暮らしていた市民もすべて市内に移住させ、立てこもるという戦術をとっていたためです。スパルタとアテナイを比べると陸軍力ではスパ ルタが優位、海軍力ではアテナイが優位にあると判断したペリクレスはスパルタ陸軍を迎え撃つのではなく籠城して防衛し、アテナイ海軍を利用して会場から敵 を攻撃するという戦略を立てていました。実際、彼の言うとおりに作戦を進めて成果を上げていて、戦略的にも正しいものでした。しかしアテナイ市内の人口が 急激に増加し、人口の密度が増すことで、生活環境は極めて劣悪なものになっていたようです。そこに当時エジプトやペルシャではやっていた病気が入ってきて 流行したようです。

この病気による被害ですが、死者の総数はわかりませんが、断片的な数字は入ってきています。紀元前430年の疫病流行では重装歩兵4000人のうち 1050人が死亡したといわれていますし、紀元前427年には重装歩兵からは4400人を下らぬ人数の欠員、騎兵からは300人、他に確認し切れぬほどの 人が死亡したと言われています。こうしたことから、アテナイの総人口30万人の3分の1がこの疫病により死亡したといわれています。

この疫病で多数の死者を出したアテナイでは社会でもかなりの混乱を引き起こしたようで、無法状態が発生したと言われています。また戦力の低下は極めて深刻 な打撃を与えたと考えられます。そして何より、疫病により指導者ペリクレスを失ってしまったことがこの後のアテナイの政治にとっては大きな痛手となりまし た。彼の死後、アテナイは戦略を誤り、遠征軍が全滅するシチリア島への遠征の後は劣勢になり、結局ペロポネソス戦争でも敗れていったのです。
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