剣闘士競技


  • 剣闘士競技の起源と発展
  • 剣闘士競技は元来は葬儀で行われる宗教儀礼としてはじめられたが、やがてこれが娯楽として発展していったものである。 (死者を慰めるために剣闘士を戦わせるエトルリア人の風習に由来するという説があるが、真相は定かではない)。ローマに おいて、剣闘士競技が行われた最古の事例は前264年、ティヴェル河畔のボアリウム広場にて行われた物である。このときは、 ユニウス・ブルトゥス・ベラと言う人物の葬儀において、2人の息子が3組(=6人)の剣闘士を戦わせたという。その後 剣闘士競技は規模の拡大、開催回数の増加が進んでいくが、それとともに、剣闘士競技は高貴な人物の葬儀において宗教儀礼 として開催されると言うのは単なる名目にすぎなくなり、娯楽的性格が色濃く現れてくる。紀元前65年には按察官カエサルが 亡父のための追悼競技会を開催し、320組の剣闘士を戦わせているが、競技会が開催されたときにはカエサルの父が死んでから 既に20年が経過していたのであった。こうして当初は葬儀において行われる一種の宗教儀礼であった剣闘士競技は単なる娯楽 へと変わっていき、公職者(特に按察官)、のちには皇帝などが莫大な資金を投じて開催する見せ物となったのである。

  • 場所
  • 当初は剣闘士競技専用の競技場が作られていたわけではなく、ボアリウム広場やローマ広場、マルスの野といった大人数が 集まれる場所に臨時の桟敷席を設置して行われていた。剣闘士競技が行われる円形闘技場が出現するのは紀元前1世紀のことで ある。現存する最古の円形闘技場はポンペイのものであり、紀元前75年に建設されたことが知られている。剣闘士競技に用いる 競技場がローマ市内や近郊に作られるのは紀元前30年のことであり、有名なコロッセウムが建造されるのは紀元80年である。

    アウグストゥスの時代のローマでは円形闘技場には元老院決議や法律により身分・性別・年齢などに応じて専用の席が設けら れるようになった。元老院や騎士は前方に席が与えられたり、男性でも既婚・未婚によりわけられていた。アウグストゥスは 内乱終結後の社会秩序再建のためにいろいろな法律を制定したが、そこで定めた秩序を円形闘技場の座席という大勢の人の目 に見える形で表そうとしたためにそのようなことを行ったと言われている。

  • 剣闘士競技に出場した人々
  • 戦争捕虜

    まず、剣闘士として、ローマが征服戦争の結果獲得した戦争捕虜たちが葬送競技において剣闘士として用いら れていた。しかしやがて葬儀とは独立して剣闘士競技が開かれるようになると、皇帝や将軍の勝利を記念 するために剣闘士競技が開かれ、彼らもそこで戦わされるようになる。ブリタニア征服で功を上げた将軍の略式 凱旋式に際してブリタニア人捕虜による剣闘士競技が行われたり、ユダヤの蜂起を鎮圧したティトゥスが捕虜とした ユダヤ人を剣闘士競技や野獣狩りに引き出して処刑したという話が伝わっている。ちなみに、戦争により剣闘士が闘技場 に供給されるということは紀元2世紀末には主たる供給源とはならなくなったようである。

    罪人

    犯罪者を見せ物に使うことは共和制末期からみられたことであり、帝政期には犯罪者が剣闘士競技に出たり、野獣に 投げ与えられるのは十字架刑や斬首にならぶ極刑のひとつとなっていき、やがて涜神、殺人など特定の凶悪犯罪を犯した ものへの処罰とされた。同時に、罪人の身分によってこれらの刑罰を科すべきかどうかが判断されるようにもなっていった。 ちなみに剣闘士とされたり野獣に投げ与えられることを宣告された者は自由人、市民としての権利をすべて失い、その人物が 奴隷身分になったとみなされたが、3年生き延びれば引退が認められ、5年生き延びれば解放され自由身分を獲得することが 定められていた(実際にはそこまで生き残ることは至難の業であったと思われるが)。

    奴隷

    購入してきた奴隷を鍛えて剣闘士とすることは古くからおこなわれていた。スパルタクスのような剣奴と呼ばれる人々が ローマには多数存在していた。おそらく剣闘士の出自としては剣闘士とするために購入されてきた奴隷が多数を占めていたの ではないかと思われる。剣闘士としての訓練を施す剣術師範は奴隷購入時に剣闘士競技や野獣狩りに使うことの同意を 売り手から買い付けておけば、買った奴隷を訓練して剣闘士とすることが認められていた。しかし帝政期にはいると、いままで のように奴隷を剣闘士として養成するために購入する事に制限を加える動きも見られる。とはいえ、その制限は奴隷を市場で 購入して剣闘士とすることを禁ずると行ったことではなく、奴隷の主人が自分の所持する奴隷を剣術師範に売り飛ばすことを 禁ずることであり、奴隷に対する主人の権限乱用をふせぐ様々な法律の出現と関係するという。

    自由人、ローマ市民

    通常は戦争捕虜や罪人、奴隷が剣闘士になることを強いられていたが、かつては高額の報酬を目当てに自由人 が参加したこともあった。自由人が剣闘士となることを望む場合、剣術師範とともに護民官のもとに出頭し、契約書 にサインすることで合法的に剣闘士となることができたという。

    また、共和政期末期のカエサルの時代に騎士や元老院身分のものが剣闘士として戦う事例が複数見られるようになり、 戦いが趣味と化している、あるいは武術の鍛錬といったことを理由に騎士や元老院身分のローマ人が参加することも あったといわれている。元老員身分や騎士身分の者の参加はやがてアウグストゥスの時代に入って法律により禁止 されていくことになる。もっとも、その後も騎士が剣闘士競技に出演した事例もあるほか、マルクス=アウレリウス =アントニヌス帝の息子コンモドゥスのように皇帝でありながら剣闘士競技の戦いの場に立ち、数多くの勝利を 得た人物もいたのであるが・・・。

    以上のような人々が養成所において訓練を受け、剣闘士として円形闘技場の舞台に立っていた。ある者は優れた技量 を発揮して勝ち残って解放されて自由の身となり、またある者は相手の刃や野獣の牙により倒れて消えていった。解放されて 自由になった者はそのことを示す木刀を与えられ、彼ら養成所の監視役や興行師、剣術師範となる者もいた。

  • 剣闘士競技当日
  • 剣闘士競技は数日にわたって開催されていた。興行はローマでは元老院議員や皇帝が主催し、地方都市では都市の公職者たち が主催し、彼らは自費で民衆に娯楽を提供していた。剣闘士競技開催の数日前より人目につく場所に広告を出して人々に告知した。 当時は紙は存在せず、広告は個人の家や公共建築物の壁、城門の外の街道に沿って広がる墓地の記念碑などに目立つように 書かれていた。そして、剣闘士競技当日、パレードの後、午前中には野獣狩り、午後になると剣闘士競技が行われたようである。 剣闘士競技では敗北した者は助命嘆願が認められた場合は助かるが、そうでない場合は殺された。勝った側も次に出てくる補充 闘士と戦わねばならず、剣闘士競技で勝ち残ることはかなり難しいことであったと思われる。

    剣闘士達はさまざまな武装をして戦っていた。投網と三つ又の槍で武装した投網士、これと戦うムルミッロ という魚の飾りのついた兜を被った闘士のほか、サムニウム風やトラキア風の剣士、追撃闘士という闘士や 戦車に乗って戦う闘士もいた。さらに騎馬の剣闘士や女性剣闘士もいたという。剣闘士の戦いは、基本的には 一対一で行われていたが、ときに複数の剣闘士が同時に戦うこともあった。

  • 剣闘士競技に関する評価
  • 剣闘士競技に対するローマ人の評価には、否定的な面と肯定的な面がある。まず、剣闘士競技を肯定する意見としては 剣闘士競技を見ることで戦いに対する恐怖が薄らぎ、武勇の気風が養わるといったもの、ローマ市民を支配する秘策と してとらえるといったものがある。一方否定的な面は円形闘技場で熱狂する群衆に混ざることの危険性、人々の堕落といった ところが取り上げられている。肯定・否定両方の意見が出されつつも剣闘士競技はローマ市民、帝国各地の都市の住民たち の娯楽として楽しまれ続け、3世紀に入っても剣闘士競技は続けられた。しかし、4世紀にはいると剣闘士競技は衰退していく。 コンスタンティヌス帝が血なまぐさい見せ物への不同意を表明し、裁判の判決で犯罪者たちは鉱山へ送られるように命じている。 また、帝国で公認されたキリスト教の教会は剣闘士競技に関わる様々な人に対して洗礼を受ける資格がないと定めたほか、365年 にはキリスト教徒を剣闘士訓練所に入れることが禁止された。そして、404年に円形闘技場に集まる観客に対し修道僧 テレマコスがそれを見ないように言ったことが原因で殺されるという事件があり、その年にホノリウス帝が円形闘技場 を閉鎖したという。その後も細々と続いていた剣闘士競技は5世紀半ばには行われなくなり、剣闘士競技とともに行われ ていた野獣狩りも6世紀には行われなくなる。

    (参考文献)
    島田誠「コロッセウムから見たローマ帝国」講談社(選書メチエ)、1999年
    ステファン・ウィズダム「グラディエイター」新紀元社、2002年
    本村凌二「優雅でみだらなポンペイ」講談社、2004年

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