東方遠征論の系譜


紀元前334年にマケドニアのアレクサンドロス3世(大王)は総勢3万7千ほどのマケドニア・ギリシア 連合軍を引き連れてヘレスポントスを渡り、東方遠征を開始した。しかし東方遠征の計画自体はアレク サンドロスの父フィリッポス2世の治世に立てられたものであり、また東方遠征というアイデアは当時 のギリシアにおいて主張されていたものである。では、東方遠征論はギリシアにおいてどのような展開 を見せたのか、またそれが展開された当時のギリシア世界はどのような状況にあったのか。

  • イソクラテス以前の東方遠征論の系譜
  •  紀元前4世紀の弁論家イソクラテスが「民族祭典演説」「フィリッポスに与う」や数々の書簡において しきりに主張していた東方遠征論であるが、まず、東方遠征論そのものはイソクラテスの独創ではない。 イソクラテス以前のギリシアにおいて東方遠征論を唱えた人物としてはゴルギアスとリュシアスの2人が あげられる。

     ゴルギアスはシチリア島出身でソフィストの代表的な人物の一人で、若き日のイソクラテスが師事し た人物である。前427年に外交使節としてアテナイを訪れ、その弁論の巧みさでアテナイの人々を魅了 した。彼は「葬送演説」においてペルシアに対する敵愾心をあおり立てたほか、前4世紀初頭の「オリュ ンピア演説」では互いに争うギリシア諸ポリスに対して協調すること、目をバルバロイに転じることを 説いた。

     リュシアスはアテナイ在住のメトイコイ(在留外人)で、弁論作家として活躍し、数々の弁論を書き 残した。彼は西のディオニュシオス(シラクサの僭主)と東のペルシア大王が手を結ぶ危険性を訴え、 ギリシア諸ポリスが互いに争うことを辞め一致団結してこれらに立ち向かうことの必要性を前384年に 「オリュンピア演説」で主張した。

     ゴルギアスやリュシアスらによりギリシア人が互いに争うことをやめて一致団結すること、そして東 方へと兵力を向けて東方に征服地を獲得することが弁論で唱えられたが、ギリシアの団結と東方遠征に 関して、これらの論題を発展させた人物がイソクラテスである。彼はアテナイの有産階級の出身で、 ゴルギアスに師事して弁論術を学び、師の東方遠征論をより発展させていった。それが「民族祭典演説」 や「フィリッポスに与う」にみられる東方遠征論である。

  • イソクラテスの登場
  •  イソクラテスは前380年の「民族祭典演説」においてギリシアの一致団結、東方遠征に関してまとまっ た論を展開した。大まかに内容をまとめると、ギリシアは貧しいのにポリスは互いに争い、多くの者が 非業の死を遂げ妻子を連れてさまよっている。一方アジアは豊かで広大な土地が耕されずに放置されて いる。しかし現在ペルシアは各地で反乱が起きているうえ、ペルシア人は不倶戴天の敵にして富を持つ が柔弱である。そこでギリシア人が一致団結し、ギリシア人同士の戦いを大陸へと移す代わりに大陸の 繁栄をヨーロッパへと移すため、共同でペルシア討伐に当たるべきであるということである。同時にアテ ナイとスパルタが争うことを辞めて和解し、ペルシア討伐の指導的立場について東方遠征を行うべきで あると言うことも述べている。しかし弁論においてはスパルタは神話、伝承、歴史まで動員して非難さ れる一方でアテナイは礼賛されており、アテナイこそ主導権をとるべきであると考えていることは明ら かである。

     しかし現実にはイソクラテスが思い描いたような形で事態は展開せず、スパルタは前371年にテーバイ に敗れて弱体化し、アテナイも第2次海上同盟を結成したが前355年に同盟市戦争に敗北して力を失った。 このような状況下でイソクラテスの考え方も変わり、アテナイにかわってマケドニアのフィリッポス2世 に期待するようになる。そして前346年に「フィリッポスに与う」を発表するのである。

     イソクラテスは「フィリッポスに与う」で、フィリッポス2世にギリシア諸ポリスを和合一致させてペ ルシア遠征を行うことを勧告している。主要なポリスが指導的立場に立つだけの力量がないことがはっき りしたいま、北方で急激に力をつけてきたフィリッポス2世が最後の頼みの綱であり、善意の調停者たる フィリッポス2世の軍事力と善意のみがギリシア世界の和合一致と東方遠征の実現をもたらすということを 主張している。

     またイソクラテスはギリシア世界を和合しペルシアに遠征して「キリキアからシノペまで」に達するア ジアの地を切り取り、そこに貧民や追放者、傭兵といった流浪する人々を定住させて生活の糧を得られる ようにしてやるべきであると言ったことも主張している。「民族祭典演説」に見える土地不足とそれに由 来する貧困・争いを打破するためのアジア征服という図式が「フィリッポスに与う」でも明示されている。 ポリス社会を不安定にする要因となる貧民や追放者などの人々を他所へと隔離することで、いままでの体 制を維持しようという考えが見て取れる。

     *なお、現在イソクラテスの著作は京都大学学術出版会より「イソクラテス弁論集」(全2巻)が刊行されて おり、その中に全ての弁論、書簡が収録されている。本項を書くに当たっても参考にしたことを明記しておく。

  • 東方遠征論と現実
  •  「フィリッポスに与う」を発表した後もイソクラテスは度々フィリッポスに書簡を送り、ギリシアの和合 とペルシア遠征の必要性を訴え、そのためには身を危険にさらすべきではないと言うことを言ってきたり、 前338年のカイロネイアの戦いを終えた直後にもギリシアの和合一致が近づいていること、東方遠征について 説き、長年の夢が叶いそうであると喜んでいる。カイロネイアの戦い直後の手紙がイソクラテスの絶筆となる のであるが、この文面を見る限り彼はカイロネイアの戦いでアテナイが敗北したことに絶望して自殺したという 伝承は誤りであろうと考えられる。彼はフィリッポスのもとで自分の理想が実現されつつあると信じて98歳 でその生涯の幕を閉じた。ゴルギアス以来の東方遠征論はイソクラテスの手によって完成させられたといっても よいであろう。

     紀元前5世紀末〜4世紀初頭よりギリシア人が一致団結してペルシアへと遠征するべきであるという東方遠征 論が弁論で話題として取り上げられるようになるが、東方遠征論が現れた頃、小アジアのギリシア人達はペルシ ア帝国の支配下に置かれ、ギリシア本土でもポリス間抗争が続いていた。また慢性的な戦争、経済的な衰退、 政治的な混乱が続く中でポリスを離れて傭兵としてペルシア王に仕える者もかなりいた。さらに言えば、前 4世紀のギリシア諸ポリスはペルシア帝国の仲介で結ばれた「大王の和約」のもと、ペルシアによって設定された 政治的枠組の中で互いに争い続ける状態であった。クセノフォンの「アナバシス」に詳しいギリシア人傭兵の 帰還話やペルシア帝国でみられたサトラップ達の反乱にかんする記述を見るとペルシアは弱体化しているよう に見えるが、実際にはギリシア諸ポリスがペルシアと対決することなどまず考えられない状態であった。にも かかわらず東方遠征論がこの時代のギリシアに登場してくる原因は何であろうか。

     まず考えられることとして、ペルシア戦争以降強くなっていったギリシア人による異民族蔑視の感情があげ られる。ペルシア戦争後、ギリシア=自由=男らしい、ペルシア=隷属=女々しいといった見方がひろまって いく。実態としてはペルシア戦争後もギリシア諸ポリスとペルシアの交流は続いていたし、ペルシアがギリシ ア諸ポリスを統制していたとしても、異民族蔑視の感情は常に持ち続けていたようである。

     また、ギリシア本土においても各ポリスの有力者達のなかに慢性的な戦争、経済的な衰退、政治的な混乱に より各地を流浪する者が増加したり貧困が拡大することによってポリス社会の秩序を乱されることを懸念する 者が多数存在したと思われる。ある者は貧困故に、またある者はさらなる活動のチャンスを求めてポリスを離 れて活動するようになったが、そのような人々はポリス社会の中で安定した暮らしを営む者から見ると異端で あり、きわめて危険な存在に映ったようである。

     このような状況下で、イソクラテスは東方遠征論をしきりに説いて廻っていたのである。彼のような有産市民 にとり、ポリス社会の枠に収まらぬ者や、そこからはずれてしまった者は、いずれポリス社会にとって脅威にな ると思われ、彼らをよその地域に隔離することによってポリス社会の安定、従来の体制の維持する事が必要で あると考えた。そしてそれを実行するためには外部に植民地を獲得してそこに人々を送り込んで定住させること が必要であるという考えが起こってきても無理はない。そして、イソクラテスは東方遠征を行い、前述のポリス 社会維持策を実現してくれそうな人物としてマケドニアのフィリッポス2世に白羽の矢を立てたのである。しかし、 イソクラテスの東方遠征論がフィリッポスの東方遠征にはさほど影響を与えていないように思われる。

     イソクラテスは当時急速に台頭してきたフィリッポス2世に一方的に期待を寄せて「フィリッポスに与う」を発表 したり書簡を送りつけているが、おそらく最後までフィリッポスの真意を理解することはなかったのではないか。 紀元前340年代の末頃までフィリッポスはマケドニアの拡大と安定のために戦い続け、様々な勢力との戦いはほぼ 同時進行であった。そのような状態で先のペルシア遠征について考える余裕があったとは考えにくい。仮に前340 年代半ばより考えていたとしても、それはイソクラテスが期待するようなものではなく、あくまでマケドニア王国 の発展のためという視点から考えていたであろう。


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