カルダケス


東征を進めるアレクサンドロスとペルシア王ダレイオス3世による最初の直接対決であるイッソスの戦いにおいて、ペルシア軍の部隊の中に、 「カルダケス」という部隊が登場します。これがどのような部隊なのかはあまりよく分かっていませんが、どうやらペルシア帝国領内の諸民族を 混ぜて作った部隊で、重装歩兵のような役割を果たしていたともいわれています。このカルダケスについて、アケメネス朝ペルシアおよびアレク サンドロスの時代を研究しているフランス人研究者ピエール・ブリアンの論文において、なかなか面白いことがまとめられていたので、それを紹介 しておこうと思います。(参考文献。Briant,P. "The Achaemenid Empire" in War and society in the ancient and medieval worlds,Harvard,1999)

ブリアンによると、カルダケスは単なる諸民族混成の重装歩兵ではなく、アケメネス朝ペルシアの支配領域内でペルシア人に対する教育・訓練と 同様のシステムが広まったことによって作られた、一つのまとまった「帝国軍」であったということになります。様々な民族からなるものの、 すべての人々に対して同じような教育・訓練を施し、そのような人々から編成され、指揮官としてペルシア人が任命されている重装歩兵部隊、それ がカルダケスであったというおとになるようです。ブリアンは、カルダケスの編成はアケメネス朝ペルシアの研究において、ペルシア人と帝国内の 諸民族の関係について考える手がかりとみているようです。そして、カルダケスを編成するときに用いられたのと同じ仕組みがアレクサンドロスが 東方協調路線をとってアケメネス朝の諸制度を継承したときに引き継がれ、東方系住民たちにマケドニア式の装備と訓練を施し、やがて東征軍に組み 込んでいくときに用いられた可能性を示唆しています。

その他、ブリアンの論文では、様々な民族の混成部隊としてのペルシア軍はヘロドトスにも書かれていますが、様々な民族の部隊が存在していても、 ペルシア軍では「見せる軍隊」と「戦う軍隊」に分かれ、実際に戦う部隊は別であったというようなことも主張されていました。ペルシア戦争中の プラタイアイの戦いではペルシア人のほかに、サカイ人、インド人、メディア人、バクトリア人、ペルシアに味方したギリシア人によって軍を編成 していますが、遠征に出発した時点では、ペルシア軍は、それこそ帝国支配下諸民族の見本市のような状況を呈していたのと比べて、随分と民族が 絞られているように思えます。サラミスの海戦で敗れたことの影響もあるのかもしれませんが、この違いには意味があるのかもしれません。

ペルシアの大王に諸民族が従っていることを視覚的に見せようとした物としては、ペルセポリスのアパダナがありますが、帝国全土から招集 した歩兵・騎兵をつかって、多民族混成軍を組織することで、目に見える形でペルシア帝国の支配圏の広さを知らしめるという意味で「見せる 軍隊」というものも意味があると思います。戦わずして勝つ、直接武力を交えることなく、相手を威圧して服従させる手段の一つとして、様々 な民族からなる大軍は相当な効果があるように思われます。一方で、いきなり全土から集められて戦えと言われても、うまく機能するかどうか 分からないところもあり、見かけ倒しに終わる可能性もあるわけですが。 

いずれにせよ、ペルシア軍というと、雑多な民族からなる混成軍団ゆえにまとまりもなく、指揮系統も混乱し、ペルシア戦争やアレクサンドロスの 東征で敗北したとみなされがちですが、史料をもうすこし丁寧に読んだ上で検討していくと、今まで見えてこなかったことも分かるやもしれません。 いっぽうで、ブリアンが主張するように、カルダケスを新たに編成された「帝国軍」とするならば、イッソスの戦いの後に行われたガウガメラの戦い で、何故カルダケスが全く見られなくなり、かわりにペルシア戦争の時のような諸民族混成軍に逆戻りしているのか、その原因は一体何かということ を改めて考えていく必要があるように思われます。カルダケスを編成して配備することが、前4世紀の政治状況(時々反乱が起こっている)のせいで 東地中海周辺の地域に限定されてしまい、東方で組織するまでにはいたらなかったのか、あるいはアケメネス朝全土を通じて「帝国軍」を編成する 仕組みができあがっていなかったのか、それとも他の可能性があるのかはこれから調べてみる必要がありそうです。


雑多な項目へ戻る
歴史の頁へ戻る
トップへ戻る

inserted by FC2 system