愛馬ブーケファラス


少年時代のアレクサンドロスの優秀さを示す逸話として、ブーケファラスを手に入れたときの話がプルタルコスの なかにとりあげられている。プルタルコスによると、テッサリアのフィロニコスがフィリッポス2世の元にブーケファラス を売りに行ったが、荒馬でだれも乗りこなせずフィリッポスは連れ出すように命じた。それに対してアレクサンドロスが 自分ならこの馬を乗りこなすことが出来るというような発言をし、ブーケファラスが自分の影をみて騒いでいるのを見て とると太陽の方に馬を向け、速歩で行く馬の脇を走りながらこれをなだめ、元気になると馬に飛び乗りこれを大人しくさせ た。そして馬が駆け出そうとする状態になると駆け足にうつった。こうしてブーケファラスを乗りこなしたアレクサンドロス に対しフィリッポスは喜びのあまり涙を流し、「おまえにふさわしい王国を探すがよい。マケドニアにはおまえのいる場所 がない」といったという。

このようにしてブーケファラスはアレクサンドロスの持ち馬となったという話がプルタルコスには伝えられている。一方で ディオドロス17巻76章6節ではデマラトスからもらったという話も伝えられている。これらの点について研究者の間でも諸説 あるようだが、最近のアレクサンドロス関係の著作を見る限りでは、おおむねプルタルコスに伝えられる話の方が支持されている。

なお、フィロニコスからブーケファラスを買ったという話はプリニウス「博物誌」8巻64章にもみられる。価格が13タランタ とかなり高い事についてもゲッリウス「アッティカの夜」でミュティレネのカレスからの引用としてとりあげられている(ただし、 買われてフィリッポスに贈られたか、フィリッポスにその価格で売りに来たか状況が違うが)。最も、プルタルコスの記述でも、 誰が一体お金を出したのかと言うことまでは書いておらず、研究者によってはディオドロスの記述との整合性も考えて、購入した のはデマラトスで、彼が買った馬をアレクサンドロスにプレゼントしたという折衷案のような解釈も出されている。

そういうこと をふまえると、プルタルコスに描かれた話自体はその後に尾ひれがついてふくらんだ部分がかなりあるとおもわれるが、概ね、 マケドニアにフィロニコスという人物が馬を売りに来たこと、そしてそれを誰か(デマラトスかフィリッポス2世)が購入し、 アレクサンドロスの持ち馬となったという程度のことがあったと考えておけば良いと思われ、別にフィロニコスを虚構の人物 とする必要はないのでは無かろうか。

このようにしてアレクサンドロスの持ち馬となったブーケファラスは以後アレクサンドロスの遠征において連れて行かれる ことになる。ブーケファラスの性質の一端として、裸馬でいるときは調馬師にかぎってその背に乗せていたが、一端馬装を つけるとアレクサンドロスの命令以外は聞かなかったという。この場合、調馬師も寄せ付けないが、アレクサンドロスの騎 乗のためには自ら背を低くして乗りやすくしたという。一方でアレクサンドロスが他の馬に乗ろうとするとそれも聞き入れ なかったという逸話も残されている。アレクサンドロスはテーバイ攻略や東方遠征においてブーケファラスに騎乗したが、 ガウガメラ合戦(前331年)当時、すでにブーケファラスは盛りを過ぎ、アレクサンドロスも重要な戦闘の時に限りこの馬には 乗っていたが、それ以外の閲兵等の時にはこの馬には乗らなかったという。

そんなブーケファラスであるが東征中に原住民に 盗まれたことがある。東征中、ペルセポリスへ向かう途中アレクサンドロスは山地のウクシオイ人を制圧したが、その時に ウクシオイ人たちによりブーケファラスが盗まれたのである。この時アレクサンドロスは地域一帯に馬を返さなければ住民 を皆殺しにするという通告を発した。結局恐れをなした現地住民はブーケファラスをアレクサンドロスに返還したという。 なお、ディオドロスやクルティウス、プルタルコスなど「俗伝系」の著作では、ブーケファラス盗難事件はマルドイ人たち がひきおこしたとしているが、恐らくこれに関しては、実際に遠征に従軍したプトレマイオスやアリストブロスを主な典拠 として大王伝を書いたアリアノスが書いているウクシオイ人の方が正しいのではなかろうか。

ブーケファラスはアレクサンドロスと共に幾多の困難を乗り越えてきたが、前326年のヒュダスペス川の戦いのあとに死んだ という。死んだときの歳は一説には30歳、もし、これが本当の話であるとするならば、これは馬の年齢としてはきわめて長命 である。一方で、この時点で30歳とすると、購入した時点で相当な高齢であり、そのような馬に大金を積むとは考えにくいこと から、ブーケファラスが生まれた年をもっと後まで引き下げ、前346年ころと見る説もあるが、それであっても死亡時に20歳位 ということになり、かなりの高齢だったと見ることは可能なようである。その死因を巡っても諸説あり、寄る年波と暑さで弱っ て死んだという説もあれば、合戦中に傷を負い戦場で死んだと言う説、ヒュダスペス川の戦いで傷つき、合戦の後しばらくして 死んだという説もある。そしてブーケファラスの名前は、ヒュダスペス川の戦いを記念してたてられた2つの都市のうちの一方 にのこされ、その町はブーケファラと名付けられた。その所在については現在に至るまで確認されず諸説入り交じっている状態 である。

なお、ブーケファラスという名前の由来であるが、ブーケファラスは黒い馬でその頭に白い模様がはいっていたが、それが 雄牛の頭のようであったためにその名が付いたとする説もあるが、牛の焼き印がつけられた馬だったためにそのように呼ば れたと言う説もある。またブーケファラスという名前もアレクサンドロスの愛馬にのみ付けられたわけではなく、この馬の 産地であったテッサリア地方の馬にはすべて馬の焼き印がつけられていたとする説もある。古代ギリシア世界で、これに似 た例としてコリントス産の馬には都市名の固体のイニシアルを焼き印として押してあったことから「コッパティアイ」と 呼ばれていたこと等が知られているほか、紀元前3世紀のアテナイで残された騎兵の記録には馬の色や焼き印についての記述 があり、そこに「牛の頭の焼き印」がつけられた馬が2頭登録されている。こうしたことをふまえると、焼き印説の方が有力 であると考えられ、アレクサンドロスが買い取ったブーケファラスもそうしたテッサリア産の「ブーケファラス」の一頭であ ったが、特に優れていたことやアレクサンドロスが騎乗したことからいつしか固有名詞のようになっていったのかもしれない。


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