毘沙門天はヘルメス?


毘沙門天というと、四天王の一人として北方の守護神として扱われたり、七福神の一人の数えられています。 そして毘沙門天の像も多数残されていますが、その中に「兜跋毘沙門天像」という頭に鳳凰のついた冠をかぶった 像が存在します。2003年の夏に東京国立博物館にて開催された「アレクサンドロス大王と東西文明の交流」展 にも兜跋毘沙門天像は出展されていて、展示の解説では毘沙門天の起源がギリシア神話のヘルメス(ローマの メルクリウス)であるという説明がなされていました。日本の仏像の姿は一見中国の部将のような姿をしていますが、 じつはその起源の一つにはギリシアの神々があるという考え方が最近出されているようです。ガンダーラの仏像に ついて研究をしている田辺勝美氏(中央大学総合政策学部教授)の論攷をもとにまとめてみようと思います。

まず、毘沙門天の起源とされているヘルメス神の図像は頭部や履き物(ブーツ、サンダル)に一対の翼が付いている という特徴があります。また、ヘルメス神は羊を抱き抱える羊飼いの姿をとることもあるようです。なぜこのような表現を とるのかと言えば、ヘルメス神が富、商業、死者の導きといった事に関係する神であることが関係しているようです。 なぜギリシア神話の神が関係するのか、というと、アレクサンドロス大王の東征が関係するという見方があります。 東征の結果、中央アジア西部のバクトリアに定着したギリシア人植民者によって、オクサス河からインダス河に至る地域へ ギリシア神話も含むギリシア文化が広がったためである、という論の展開になるようです。その一方で、紅海・インド洋を 経由するローマとの海上交易によりギリシア文化が伝わった可能性もあり、ギリシア文化伝播の要因を一つに特定すること は難しいようですが、ギリシア・ローマの文化が中央アジアにまで伝わっていきました。そして、この地方に伝わった 古代ギリシア・ローマの文化を引き継いだのがイラン系クシャン人であり、彼らが神を表現する際にギリシア、ローマの 神々の像を借用し、それゆえにギリシア神話の神のような像が見られるのだと考えられています。

そして、クシャン朝のカニシカ1世とフヴィシカ王が発行したコインに刻印されたファッロー神の図像には手に杖を持ち、 頭部に一対の大きな翼が付いています。コインに刻印されたファッロー神とは財産、幸運、幸福、王位、栄光などの人間に とって善なるもの全て包括した観念であり、明らかに、同じ職能を司るヘルメス(メルクリウス)神をモデルとしている のではないかと見られています。理由としては、ファッロー像が杖を持ち、翼が頭部についているところからそのように 考えられているわけです。翼の借用に関しては、ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』によると、ファッローは鳥の姿をして イマのもとから去ったといわれています。また、クシャン朝のコインでは、イヤクショー(閻魔大王のこと)は右手にファッロー の化身である鳥をのせている姿で刻印されています。つまり、ファッローは鳥で以て表されていたのです。一方でクシャン族の ファッロー神はガンダーラの地ではインドのクヴェーラ神(豊穣神)と結びつきます。クベーラは古代インドの仏教では東西南北 の四方を守護する四天王の一人で北方を守護する神でありました。クベーラは北方のガンダーラにおいてほかの四天王より重視され、 ファッローと習合し、四天王の首領格になっていきます。それとともに名前も変わり、毘沙門天(ヴァイスラヴァーナ)となります。

そして、ガンダーラの仏教美術の作品である「四天王奉鉢図」や「出家踰城図」などシャカの伝記を表した浮彫に登場する毘沙 門天を表すためにファッロー=ヘルメス(メルクリウス)神の像を用いているようです。ここにみられる毘沙門天像はインドの王族 風だったり、ローマ風であったり、弓を持って武装していたりするところでいろいろ違いはありますが、いずれの像も頭部に翼を つけていて、これはヘルメスから借用したからであると考えられています。ちなみに仏典の『普曜経』にも、出家踰城の場面に「天帝 (帝釈天)と毘沙門天が釈迦牟尼とその愛馬カンタカを前導する」と記述していることもその裏付けとして用いられています。ちなみ に「出家踰城図」に登場する弓(矢筒)を持ち武装した毘沙門天像は今世紀初頭以来、シャカの出家を妨害する魔王マーラであるとか 帝釈天であると言われてきたが、誤った解釈であると田辺教授は言います。

以上、毘沙門天像の源流をたどると、それはギリシア神話のヘルメスにまでたどり着くという説をまとめてみました。このような 説に基づいて、国立博物館で開かれたアレクサンドロス展の展示の説明、展示の組み立てが行われていました。また、同じ展覧会 では他にも執金剛神像がヘラクレスに由来することや、風神がギリシアのボレアスに由来する、といった説明がなされていました。 毘沙門天の起源がヘルメスにあるという説について、要素の一つとしてギリシア、ローマの文化も関係していたと考える点ではなかなか おもしろいと思います。しかし実際にはギリシアから日本に至るまでの時間・空間の隔たりは非常に大きく、その間にギリシア以外の 要素がいろいろは言っている可能性もあるのではないか、とも思います。明快な説明ではありますが、その過程で切り捨てたものも 当然いろいろあるのでしょう。仏像の源流をたどるとその最初の部分にギリシア神話がある、というよりもガンダーラ地方に入り込んで きた様々な分化が組み合わさる中で仏像が作られ、そのようその一つにギリシア文化があるという程度に考えておいたほうがよいの かもしれません・・・・。しかし、一方でガンダーラの仏教美術の浮彫の解釈そのものを改めて行っていくことも必要なようで、 (たとえば、出家踰城図の解釈)、さらにガンダーラ美術の研究が進む可能性もあるようです。今後の研究の進展に期待、といった ところでしょう。


雑多な項目へ戻る
歴史の頁へ戻る
トップへ戻る

inserted by FC2 system