モンゴルとチベット仏教


  • チベット仏教の浸透
  •  モンゴルとチベット仏教というと、フビライに招請されたパスパ(パクパ)の存在があるように、 両者が出会った時期はかなり早い。元の時代にチベット仏教の寺院が数多く建てられたが、元におけ るチベット仏教は皇帝権力を支える宗教として用いられたため、元の支配下にある人々が強制改宗さ せられるようなことはなかった。そうしたこともあり、チベット仏教の信仰が浸透して行くのは16 世紀後半以降のことである。元が大都を捨てて北帰したのち、モンゴルはいくつもの集団が分裂と統 合を繰り返した。その中でチベット仏教の信仰はいったん衰退してしまったが、そのチベット仏教の 信仰が復活するのは16世紀後半のことである。このとき、チベット仏教信仰の復活の担い手となった のがアルタン・ハーンであった。

     1571年、明との和議に応じ順義王に封じられたアルタン・ハンのもとにゲルグ派のソナムギャム ツォの命を受けたアセン・ラマという僧侶がやってきた。伝わるところでは、アセン・ラマはアルタン に「前世のハン」のように仏教を興隆させれば「転輪聖王のように有名になれる」と言い、1575年に アルタンはソナムギャムツォを招請するべく使者を派遣し、ようやく1578年にそれが実現した。この ときにアルタンとソナムギャムツォの間に施主・帰依処の関係が作られ、二人の関係はフビライとパ スパの関係の再現とみなされた。ソナムギャムツォには「ダライ・ラマ」の称号が送られ(これ以降 ソナムギャムツォはダライ・ラマ3世と記す)、ダライ・ラマ3世はアルタンに転輪聖王の称号を与 えた。これ以降、チベット仏教はモンゴルに広く、深く浸透して行く。

     1578年のソナムギャムツォとの会見から死去するまでの3年間、アルタンの活動はただ宗教的活動が 知られるのみであるという。これらの一連の出来事からはアルタンがチベット仏教に帰依して静かな 余生を送ったように見える。しかし一方でアルタンが自らをフビライの転生者とすることで自分の権力 の正統性を訴えようとしたとも考えられる。また、チベットとの結びつきを強めることで当時明から 多数の漢人が入り込んでいたモンゴルが中国化することを防ごうとしたとも言われている。

     これ以降モンゴルにはチベット仏教の信仰が広まり、血統(チンギス・ハンの男系でないとハンに なれない)や実力の他に、チベット仏教の思想による権力の正統化がモンゴルの支配者に求められる ようになっていく。モンゴルの王侯がチベットの高僧と信仰を持ったり、チベットを欲したりしたの はそれと関係がある。同様のことは、中華の皇帝、モンゴルのハンとして君臨した清朝についても言 える。ホンタイジはダライ・ラマ5世を招請を試み、次の順治帝はダライ・ラマ5世を北京に招請し、 フビライやアルタン同様に転輪聖王の名を与えられた。後に康煕帝や乾隆帝もその称号を与えられている。

  • 活仏ジェブツンダンバ
  •  話を進める前に、まず活仏とは何か、その点について少しまとめておく。チベット仏教では高僧は 菩薩の化身であり、何度も生まれ変わって衆生の救済にあたると考えた。その高僧の生まれ変わりが 活仏である。転生活仏制度とよばれるものが14世紀中頃からチベット仏教においてはじめられた。高 僧が亡くなると、予言や占いを用いて死後49日以内に受胎した子供から転生を探し出し、養育する。 そして教団と財産を継承させてゆく制度がそれである。僧侶の妻帯を禁じているため、転生活仏制度 はチベット仏教の教団を維持するために有効に機能した。

     モンゴルにもこの制度が持ち込まれ、各地に転生が出現した。ジェブツンダンバ1世と2世はチンギス ・ハンの家系に転生し、その後3世から現在の9世まではチベットに転生している。チベットに転生した とはいえ、9世の前のジェブツンダンバ8世はチンギス・ハンの子孫の生まれ変わりであったため、 辛亥革命により清朝が滅びて中華民国が建国された時、中華民国からの独立を図ったモンゴル諸侯により 君主に推戴されたのである。

     初代のジェブツンダンバ1世はチンギス・ハンの家系に生まれ、高僧の転生として認定され、4歳で 剃髪、5歳で戒を受けて僧となった。ジェブツンダンバの兄トシェート・ハンはハルハ左翼の盟主である。 その後ハルハ部では左翼と右翼の内紛が勃発した。結局1686年に講和会議が開かれ、とりあえず対立は 解決したが、この講和会議においてジェブツンダンバはダライ・ラマ5世の代理と対等に振る舞った。 このことが中央アジアに勢力を持っていたジューンガル部のガルダンを怒らせることになる。ガルダンが ジェブツンダンバの振る舞いにたいして怒ったことと、転生活仏制度は極めて密接な関係を持つ。ジェブ ツンダンバは5歳の時に戒を受けて僧となった。ジェブツンダンバに戒を授けたのはチベットの高僧ウェ ンサ・トゥルクという人物である。ウェンサ・トゥルクは1643年に亡くなるが、その翌年にジューンガル 部長バートル・ホンタイジの息子ガルダンが生まれ、生まれるとすぐにウェンサ・トゥルクの転生として 認定された。ガルダンはその後チベットへ行き、始めはパンチェン・ラマに師事し、その死後はダライ・ ラマ5世のもとで修行を積んだ。前世がゲルク派ではない宗派の僧であり、また自分の前世での弟子に過 ぎないジェブツンダンバが、自分の師であるダライ・ラマ5世の代理と対等に振る舞ったということは、 ガルダンの目にはダライ・ラマおよびゲルク派にたいする侮辱と映り、怒ったのである。

     1688年春、ガルダンがハルハに侵攻し、ジェブツンダンバは兄トシェート・ハンとともに清朝のもとに 逃げるが、ガルダンはトシェート・ハンとジェブツンダンバの引き渡しを執拗に迫っている。彼はハルハ 侵攻の前年にトシェート・ハンがハルハ右翼のジャサクト・ハンとガルダンの弟を殺したこと、ジェブツ ンダンバの講和会議での振る舞いに抗議し、彼らを保護する清朝に対して引き渡しを要求した。結局この 問題は平和理に解決することはできず、清朝とジューンガルの戦争が始まることになる。

     清朝に逃げてきたジェブツンダンバとトシェート・ハンは1691年にドロン・ノールで康煕帝に臣従を誓 った。ドロン・ノールはかつて元のフビライが上都を建てた場所で、康煕帝はこの地にハルハや内モンゴル 諸侯をあつめ会議を行った。ハルハ諸侯や清の皇族、八旗が居並ぶ中にジェブツンダンバとトシェート・ ハンが康煕帝に謁見し、次いで場を改めて内モンゴル諸侯や満洲貴族、ハルハ諸侯ら総勢1000人が居並ぶ 中でハルハ部の3ハンおよびハルハ諸侯が臣従した。ドロン・ノール会議以降外蒙古は清朝に服属するよ うになったが、ジェブツンダンバは康煕帝に気に入られ、北京や熱河で皇帝と共に過ごした。1718年に康 煕帝は彼を正式にハルハのゲルグ派教主に封じ、チベット仏教の高僧である彼の地位を清朝が保障するよ うになった。

     ジェブツンダンバはドロン・ノール会議以降毎年のように康煕帝と共に過ごすようになっていたが、1721 年に康煕帝と1723年は康煕帝70歳、ジェブツンダンバ90歳という記念すべき年であり、その年に康煕帝の所 に行くという約束を交わしていた。ジェブツンダンバはこの約束を忠実に守り、1723年に北京を訪れ、前年 11月に崩御した康煕帝の必備に対面した。そしてその直後に発病して北京で入滅し、その後兄の子から転生 者が選び出されジェブツンダンバ2世となった。しかしジェブツンダンバ2世が天然痘で34歳で入滅すると、 当時の清朝の皇帝乾隆帝はジェブツンダンバ3世をチベットから選び出した。これはその頃、ハルハ部での 反乱があり、それに懲りた乾隆帝としては将来ハルハの王公がモンゴル人の活仏を中心にまとまることの危 険性を考えたため、そのような処置を執ったという。

     それから時は流れ、モンゴルが独立、社会主義化、そしてモンゴル国へと移りゆく中でラマ教を紐帯とする モンゴル民族の結びつきは今もなお生き残っている。2002年8月19日の毎日新聞国際面に、モンゴルのチベ ット仏教指導者ボグド・ゲゲン(チベット名ジェブツンダンバ)9世のインタビューという記事が掲載されて いた。先代のジェブツンダンバ8世は辛亥革命により清朝の崩壊が明らかになったときに元首に推戴された 人物である。1924年に彼が死去した後、転生は最早認められず、活仏の流れは途絶えたことになっていた。 現在モンゴル、ロシアの一部(ブリヤート、カルムイク)において布教活動を行い、現在は国境線により寸断 されているモンゴル民族の精神的指導者をめざすという。

    (参考文献)
    岡田英弘「康煕帝の手紙」中央公論社(現・中央公論新社)、1979年
    宮脇淳子「最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡」講談社、1995年

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