スキタイとの遭遇
〜フィリッポス2世、アレクサンドロス大王とスキタイ〜


フィリッポス2世のもとでマケドニアは発展し、その支配領域を拡大しますが、その過程で様々な北方の諸勢力との争いを繰り広げました。 マケドニア長年の宿敵イリュリア人の他、パイオニア人、トラキア人(オドリュサイ人やトリバッロイ人など)との争いについて、史料は かなりのことを語っています。しかしフィリッポス時代のマケドニアと争ったのはそれだけではなく、最古の騎馬遊牧民スキタイとも一戦を 交えたと言うことが知られています。そしてフィリッポスの跡を継いだアレクサンドロスも、東征の最中にスキタイと争ったことが知られて います。

マケドニアはギリシア世界の中では強力な騎兵を持つ国でしたが、スキタイ人は騎馬遊牧民として馬の扱いやそれの戦闘への利用では 恐らくマケドニアよりも上であったと考えて良い人々です。そのスキタイ人を相手にフィリッポス2世やアレクサンドロス大王はどのように 戦ったのでしょう。史料としてはユスティヌスやアッリアノス、クルティウスにかなり詳しく描かれているので、それを参考にしつつまとめて 見ようと思います(ユスティヌスは「地中海世界史」(合阪學訳、京都大学学術出版会)、アッリアノスは「アレクサンドロス大王東征記」 (大牟田章訳、東海大学出版会)、クルティウスは「アレクサンドロス大王伝」(谷栄一郎・上村健二訳、京都大学学術出版会)を参照)。

  • フィリッポス2世とアタイアスの戦い
  • スキタイ人とマケドニアの争いの中で、管見の限り最も古い出来事として、フィリッポス2世とアタイアス(アテアス)の争いが挙げられます。 アタイアスは紀元前350年頃にドナウ川の河口付近に進出し、ストラボンによると現在のアゾフ海の辺り(マイオティス湖)まで支配していたと 言う記述が残されています。そして、フィリッポスと戦った頃、既に齢90歳くらいというスキタイ人の王でした。彼は自分の名前を打刻した銀貨 を発行した王であり、彼の墳墓とされるものは黒海沿岸にいくつかその候補が存在し、黒海北岸最大級の古墳チョルトムリクがそうではないかと 言われています。

    フィリッポス2世とアタイアスがなぜ争うことになったのかというと、はなしはフィリッポスのビザンティオン包囲戦の時期に遡ります。彼が ビザンティオンを包囲している頃、ギリシア人都市アポロニアの人を介してアタイアスが援助を要請してきたと言われています。当時アタイアス はヒストリア(イストリアとも)と戦っている最中で、これとの戦いにマケドニアからも力を借りようとしたようです。そのため同盟を結んだの ですが、ヒストリアの王が急死したため援軍の必要が無くなったアタイアスは援助を断ります。一方フィリッポスはビザンテイオン包囲に協力する ようにアタイアスのもとに使者を派遣しますが、アタイアスはこれを拒否しています。こうしたことからマケドニアースキタイ関係は悪化し、 前339年、ビザンティオン包囲戦の後、矛先をスキタイへと向け、ドナウ川方面へ進軍し、ついにフィリッポスとアタイアスの間で戦いが始まり ます。この時の戦いでスキタイはフィリッポスに敗れ、アタイアスは戦死(偽ルキアノス「長命者たち」より)、二万人の捕虜(少年、婦人)と 膨大な家畜、2万頭の馬がフィリッポスの手に入ったとされます(ユスティヌスによる。最も、フィリポスはここで手に入れた戦利品を帰路遭遇 したトリバッロイ人に奪われてしまい、自らも重傷を負うのですが)。

  • スキタイ騎兵との激突 〜ガウガメラの戦い〜
  • 時代は下って紀元前331年、歩兵4万、騎兵7千のマケドニア・ギリシア連合軍はそれに数倍するペルシア帝国軍とガウガメラにて激突します。 この時ダレイオス3世は支配下にある帝国全領域から兵士を集め、そのなかには帝国東部のバクトリア、スキタイの騎兵も含まれていました。彼ら はペルシア軍左翼に配置され、アレクサンドロスが率いるマケドニア軍右翼に向かい合う形になりました。

    ガウガメラの戦いではアレクサンドロスがマケドニア軍を右方向へと進め、ペルシア軍はこれを包囲しようとして動き始めます。そして、 戦列が左へと伸び続ける様子を見たダレイオスはペルシア軍左翼の騎兵部隊に攻撃命令を下します。この時、バクトリア騎兵とともにスキタイ人 騎兵がマケドニア軍右翼に襲いかかってきますが、マケドニア軍では当初はメニダス指揮の騎兵部隊が応戦して敗退し、その後で前哨騎兵とパイ オネス人騎兵、傭兵歩兵部隊が駆けつけてこれに応戦します。ペルシア側もさらにバクトリア騎兵の主力部隊が合流し、両軍の間で激戦が展開され、 結局マケドニア軍はペルシア軍を撃退したのですが、この時スキタイ騎兵が人馬とも防具で固めていたためにマケドニア側は苦戦したという記述が 見られることから、この時に従軍していたスキタイ騎兵は重装騎兵として使われていたのではないかといわれています。また、左翼にスキタイ騎兵 のほか、スキタイ系ダハイ人騎兵がいたことや、右翼にサカイ人騎兵が配置されていたことも知られています。

  • スキタイ遠征
  • その後、アレクサンドロスがスキタイ人と接触を持つのはガウガメラの戦いの後、ダレイオスを追って東へ進み、さらにベッソスを倒すべくバクト リアへと入ってきてからのことになります。ベッソスを追ってバクトリアへ入り、さらにソグディアナへ向かったアレクサンドロスは、ソグディアナ とスキタイ人の世界の間に「最果てのアレクサンドレイア」を建設します。なお、これを建設したことによってソグディアナやバクトリアとスキタイ 人の経済交流や軍事的な同盟関係のようなものの存在が認められなくなり、それ故にアレクサンドロスに対しソグディアナで反乱が起き、スキタイ人も 一緒になって戦ったとする説もあります(ただし、問題点としては最果てのアレクサンドリア建設以前にソグディアナの反乱は始まっているという事 ですが、アリアノスの記述(第4巻の初めのあたり)を見ると、スピタメネスが反乱を始めたことと、スキタイ・ソグディアナ・バクトリアが一体と なって反抗したことは別と見ても良いのではないかと)。

    「最果てのアレクサンドレイア」を建設したアレクサンドロスはその後、川を越えてスキタイ人たちの土地へと攻め込んでいくことになります。同じ ころ、スピタメネスたちの反乱が始まっていましたが、これに対しては僅かな兵力をあてて(騎兵680、歩兵1500、指揮官は通訳のファルヌケス)、 遠征前には部下の中から反対意見も出ましたが、それを押さえつけ、着々と軍備を整え渡河準備を進めていきます。一方スキタイ人たちは川向かいに いて、アレクサンドロスへの挑発を続けていましたが、ついにアレクサンドロスは彼らに対して攻撃を開始します。それはアリアノスによると、 次のような形で行われました。

    まず、射出機(カタパルト)で対岸土手にいるスキタイ人たちを攻撃し、彼らが乱れたのを見ると川を渡り初め、まずは弓兵と投石兵を上陸させます。 これは後に続く騎兵や密集歩兵の渡河を邪魔させないためだったようです。そして、全部隊が上陸すると最初は傭兵騎兵(装備など不明)と長槍を もつ騎兵を繰り出し、彼らがスキタイ人の弓による攻撃で撃退されると今度は弓兵、アグリアネス人、軽装歩兵諸隊、騎兵の混成部隊を送り出します。 さらに敵に接近した彼は、ヘタイロイ騎兵と騎馬投槍兵に突撃を命令し、自らも残りの騎兵を率い突入していきました。こうした攻撃によってスキタイ 人は1000人の戦死者をだし、150人が捕らえられた (アリアノスの記述による)。

    一方、クルティウスになると少し違っています。筏に丸盾兵(槍を投げる兵士らしい)を乗せ、その後ろに射出機を配置し、その他の兵士は盾を 構えて守りを堅めて漕ぎ手を守る(騎兵でも同じ)。筏の後ろに藁を積めた革袋で移動する者がいたといいます。そしてスキタイ人たちは着岸を 妨害すべく騎兵を並べていたといいます。それに対して射出機で攻撃し、さらに軽装兵が攻撃を加えながら上陸し、その後に騎兵が上陸、残りの 兵も渡河を完了して装備を整え、敵への攻撃を開始したという形になっています。

    どちらの記述でも、射出機による攻撃の次に飛び道具を持った兵士の攻撃が続いた点ではおなじで、アリアノスの方が詳しく描かれていますが、 その後は歩兵と騎兵が攻撃を加えてスキタイ人を撃退しています。このあと、スキタイ側からアレクサンドロスの許に使者が送られ、一方、 アレクサンドロスはデルダスという人物をスキタイ人のもとに派遣し、その翌年にデルダスはスキタイの使節をともなってアレクサンドロスの 元に帰還し、マケドニア軍とスキタイとの間に友好的な関係が作られていくことになります。実際、東征後半にはスキタイ系の騎兵部隊が東征軍 の中に見られるようになっていきます。

  • 戦い方をみてみると…
  • フィリッポス2世、アレクサンドロス大王のどちらもスキタイ人相手に戦い、いずれも勝利を収めています。騎馬遊牧民であるスキタイ人を 相手に戦って勝利できたのは何故かを考えるに辺り、あくまでペルシア軍の一部としてダレイオス3世の作戦プランに従って動くことをもとめ られていたであろうガウガメラの戦いの記述は、スキタイ人の戦いを考えるうえであまり参考にはならないように思えます。スキタイ人の戦い 方としては重装騎兵も存在するものの、弓で遠くから攻撃し、敵が迫れば退き、遠巻きに攻撃しながら取り囲んで敵を殲滅するという戦い方を 得意にしていたようです(実際、その戦い方によってポリュティメトス川でマケドニア軍(ファルヌケス指揮)は壊滅しています)。

    弓を射かけてくるスキタイ人に対してアレクサンドロスが取った戦い方は、歩兵だけとか騎兵だけと言った具合の戦い方ではなく、複数の 兵科を組み合わせて攻撃しているところに注目すべきでしょう。槍と剣で戦うヘタイロイ騎兵に騎馬投槍兵を組み合わせたり、騎兵の他に 複数の重装歩兵を組み合わせて突撃させるなどの工夫を凝らしていることがアリアノスの記述から窺えます。また、闇雲に攻撃を仕掛ける のではなく、射出機で最初に攻撃を仕掛けてスキタイ人たちを乱したり、飛び道具を使う兵士を活用して軍勢が整うまで時間をかせいで いることも重要でしょう。歩兵や重装騎兵だけで勢いに乗って攻め込んで孤立して包囲されるという、歴史上騎馬遊牧民相手によく見られる 負け戦のパターンとはかなり違うと言うことが分かるのではないでしょうか。フィリッポス2世とアタイアスの戦い方はよく分かりませんが、 おそらく複数の兵科を組み合わせつつ、策も用いつつこれを打ち破ったのではないかと思われます(なお、スキタイ人相手に戦うときに自軍の 兵士の後ろに騎兵を置き、督戦隊として使ったという話が伝えられています)。

    フィリッポス2世、アレクサンドロス大王のもと、マケドニアでは諸兵科連合軍がつくられたとはいえ、マケドニアでこのような戦い方が皆 徹底されていたのかというと少々疑わしく、東征中にトラキアに残してきた部隊がスキタイ人と交戦して壊滅させられたという話もあり (クルティウス、ユスティヌスに見られる)、スキタイ人に対する勝利は、フィリッポス2世、アレクサンドロス大王個人の資質に着せられる 部分が大きかったのではないでしょうか。


    (参考文献)*上記の史料以外
    林俊雄「スキタイと匈奴 遊牧の文明」講談社(興亡の世界史第2巻)、2007年
    Hammond,N.G.L. Philip of Macedon,Baltimore,1994
    Holt,F.L. Into the Land of Bones , Berkeley&L.A.,2005

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