破壊された都市オリュントス


フィリッポス2世がマケドニアを強大化させる過程で征服した都市は多数ありますが、その中でかなりの勢力を誇っていたオリュントス は陥落した後にフィリッポスにより破壊され、その後再建されることなく放置されたといわれています。オリュントスの破壊について、 ディオドロスは次のような記述を残しています。

    「そして市内を掠奪し,住民を奴隷にして戦利品として売り払った。これによって多額の軍資金が手に入り,対立する他の都市を恐れさせた。 戦闘で武勇を発揮した兵士にはそれにふさわしい褒美を与えて褒め称え,諸都市の有力者には多額の金をばらまいて多くの者たちを祖国の裏 切り者に仕立て上げた.事実彼自身,武器によってよりもむしろ金によって己の王国を拡大したと公言していたものであった。」

では、実際の所フィリッポスの征服によるオリュントスの破壊というのはどのような感じだったのでしょうか。オリュントスについては20世紀前半、 アメリカのロビンソン率いる調査隊が1928年から10年間かけて行った発掘により、フィリッポスに攻略されたあと放置されていた都市の様子が明 らかになりました。この時の発掘によるとオリュントスの遺跡で発見された住居を見ると、数多くの住居に激しく燃やされたり破壊された痕跡が見 られる事が明らかになっています。

また、攻略後、都市はそのまま放置されていたと考えられていましたが、住居遺構のなかに、多くの物品が床の上にそのままの場所に残された状態 で破壊されている家が発見されています。そして特にオリュントスを構成する2つの丘のうち北の丘の東側に広がる住宅区域の住居に激しく焼けた 痕跡が見られたり、盾や鏃、投擲弾といったものが多数出土したりしたことがしられています。しかし市街地から戦死者の遺体は発見されておらず, おそらく包囲戦終了後に片づけられたものと考えられています。

 オリュントス人の扱いについては、アイスキネスがメガロポリスへ使者として派遣され,アテナイへと帰国する際にフィリッポスの宮廷から帰還 途中のアトレスティデスとであったときの記述という物があります。そこではアトレスティデスは32人の婦女子を同伴しており、彼女らはフィリッ ポスから彼に与えられたオリュントス人だとされています。一方、奴隷とならなかったオリュントス人も当然存在しており、後にアレクサンドロス 東征の歴史を書くカリステネスをはじめとしてオリュントス出身者は奴隷以外にもマケドニアの宮廷にいたことも知られていますが、親マケドニア 派のオリュントス人たちはマケドニアの征服後はマケドニアの家臣となったのでしょう。

その他アテナイへ亡命したものや,それ以外のちへ亡命したカルキディケー人の存在が碑文から窺えますし、デモステネスの紀元前341年の弁論で は次のような記述があげられています。

    「オリュントス,メトーネー,アポロニア,およびトラキアの32の都市がこうむった被害については省略します.それにしてもフィリッポスは その全てを無惨にも滅ぼし去ったのであります.いまそれらの跡を訪れる者はそこに人が住んでいたことがあるのかどうかさえ推測するに困難 を覚えるでしょう.」

 内容的には不確かな事柄も列挙されていますし、オリュントスは完全に人っ子一人住まない荒れ地になったわけではなかったことは後の史料に より示されています。例えば紀元前3世紀のリュシマコスによる土地分与の碑文で「オリュンティアのトラペザス」という地名が登場しますが、 紀元前4世紀末(306年)のカッサンドロスが土地保有,港湾権益を保証した碑文に登場するトラペザスと同じであるとされています。フィリッ ポスによる征服後,オリュントスは一地名にその名を残しているとはいえその領域は周辺に入植したマケドニア人の間で分割されていたと考えた 方が良いようです。またオリュントス市の北西部という限られた区域であるがフィリッポス2世からカッサンドロスにいたるまでの貨幣が出土し ています。こうしたことからオリュントスは破壊された後も一部の区画は利用され続けたけれど、それはあくまでオリュントス市の北西部という 限られた区域であり、都市の全面的な復興はなされなかっと考えた方がよいようです。

カルキディケー半島の都市で破壊されたことが明確に分かっているオリュントスとスタゲイラを除くカルキディケー人諸都市はフィリッポスの 支配下に入り,マケドニア人の入植が行われたことはカッサンドロスが土地保有,港湾権益を保証した碑文において,フィリッポスの時代に ポレモクラテースにトラペザスの他にシナイア,スパルトーロスというボッティアイアの都市に属する土地を与えたことが書かれたことから、 フィリッポスによる征服以降マケドニアからの入植が行われていたことは確かである.

 しかしそれではなぜオリュントスは征服後に破壊され,その後都市の限られた地域にのみ住民が居住し,オリュントス市全土を修復するには 至らなかったのでしょうか。オリュントス戦争において破壊,掠奪を受けたことが明らかな都市はオリュントスと遠征開始当初のスタゲイラの みであり,その後はそれに類する活動は史料中からは確認されていません。カルキディケー半島のトローネー,メキュベルナに関してはマケド ニア軍の投擲弾が出土していることから攻城戦が行われた形跡はありますが、最終的にフィリッポスの外交手腕により陥落させられており,後 に破壊されたことを伝える史料はありません。オリュントスの場合は攻略までにかなりの時間を要していたので、従軍した兵士たちの欲求を 何らかの形で満たす必要があったので破壊したのではないかとも思えますが定かではありません。

また、オリュントスを征服後に徹底的に破壊した後に再建することなく放置した理由として王位に挑戦する可能性のある王族をかくまったから かもしれません。これについてはオリュントスの破壊と状況が類似するメトーネーの事例が挙げられます。メトーネーはフィリッポス即位直後 に王位への挑戦者アルガイオスと彼を支援するアテネのマケドニア侵攻の拠点としての機能を果たしていたといわれていますし、その後もメト ーネーはアテナイのマケドニア沿岸の拠点としてフィリッポスに対立し続けていました。メトーネーが陥落した際に住民はその都市から追放され, その領域はマケドニア人達の間で分配されて都市としてのメトーネーは消えてしまいます。メトーネーもオリュントスもフィリッポスに反抗し、 しかも別の王族による王位への挑戦の基盤としての役割を果たしていたということは征服語の処遇にかなり影響を与えていたのでは無いかと 思われます。フィリッポス2世が王位を脅かす勢力に対して断固たる処置を執ることをマケドニア国内に向けて示すために征服後に破壊し、 さらに復興せずに放置するということにつながったのかもしれません。

(参考文献)
Cahill,N.D. Olynthus : social and spatial planning in a Greek city  Dissertation,University of California,Berkeley, 1991
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