ミルティアデス
〜マラトンの英雄の栄光と死〜


紀元前490年9月12日、アテナイから約37キロ離れたマラトンにてアテナイ・プラタイアイ連合軍1万とペルシア軍10万 が激突し、アテナイ軍が勝利を収めた。この時に勝利の知らせを伝えるべくマラトンからアテナイまで伝令が 走ったことが、近代のマラソン競技の由来であるという伝説が広く伝わっている。数の面で圧倒的に不利であ ったアテナイ軍を勝利に導いたのは当時アテナイの将軍であったミルティアデスである。この勝利により彼の 名声は高まるが、その翌年には彼は裁判にかけられ有罪判決を受け、まもなく死ぬこととなった。マラトンの 英雄といっても良い彼がなぜそのような最期を遂げることになったのだろうか。

  • ミルティアデスの生涯
  • ミルティアデスはアテナイの名門フィライオス家に属し、ペイシストラトス一族が僭主政治を行っている時に、 僭主ヒッピアスの命でケルソネソス半島へと送られ、現地で僭主となった。かつてペイシストラトスが僭主で あったとき、フィライオス家のミルティアデス(ミルティアデスの伯父に当たる人物)がケルソネソスに植民 を行い開拓を進め、やがて僭主として現地を支配するようになっていた。その後ミルティアデスの兄ステサゴ ラスが子を残さなかった伯父の後を継ぐが、彼も敵の刺客の手にかかって死んだ。そのため、ケルソネソスに 影響力を保持したいアテナイの僭主ヒッピアスが白羽の矢を立てたのがミルティアデスだったのである。彼は 前524/3年にアルコンに就任するなど、ペイシストラトス一族とうわべでは友好関係を築いていた。

    その状況でヒッピアスは利用できる限りはミルティアデスを利用し、ケルソネソス派遣もその一環であった。 前516年頃に僭主の地位についたミルティアデスは、トラキア王の娘をめとって地位を固め、前513年にはダ レイオス1世のスキタイ遠征にも参加した。ケルソネソスの僭主としてミルティアデスは壮年期を過ごし、 その間にスキタイ人との闘争に明け暮れたり、ダレイオス1世のスキタイ遠征に従軍したことが後のマラトン の戦いにおいて活かされるのである。

    しかし、前493年にケルソネソスから全財産を船に積み込んでアテナイに帰国した彼は反ペルシアを標榜する 代表的人物となっていた。ダレイオス1世のスキタイ遠征に参加した彼がなぜ反ペルシア主義に転向したのか、 確実な理由はないが、イオニア反乱が起きた時に、彼は反乱側に荷担したためであると考えられている。イオ ニア反乱当時、ミルティアデスがケルソネソスで鋳造させた貨幣を見ると、表にミレトスの象徴である獅子を 振り返る全身像、裏にヘルメットを戴くアテナ女神像が刻まれており、このような図像をわざわざ残すと言う ことは、彼がイオニア反乱を支援していた証拠であると言われているが、定かではない。理由はさておき、ア テナイに帰国すると反ペルシア派の政治家として活動を開始したミルティアデスに対して、対ペルシア妥協政 策をとろうとする敵対勢力(アルクメオン家など)がかれに対して弾劾裁判を起こすが無罪となった。罪状は ケルソネソスでの僭主政治であったが、民衆の間での人気の高さや、国外での行為であったことなどが関連し、 無罪となったのである。

    そして前490年、マラトン地方にペルシア軍が上陸したとき、ミルティアデスはアテナイ軍の10名の将軍団の 一人として出撃することとなった。マラトンにおいて、ペルシア軍とアテナイ・プラタイアイ連合軍は数日間 対峙していた。アテナイ軍内部では将軍達の間で意見が対立し、作戦がなかなか決定しなかった。兵力でペル シア軍に劣るため、当面戦闘はさけるべきとする意見と、迅速な決戦を求める意見が対立し、ミルティアデス は後者の意見を主張した。

    そして、アテナイ軍最高司令官(ポレマルコス)のカリマコスはミルティアデスに 説得され、交戦を決断した。ミルティアデスはカリマコスを説得して交戦を決定させようとして、内部の党争 が激しくなり士気が低下し、やがてペルシア側に内通するものが現れる危険性を説いている。ペルシアと交戦 中に内通者がでて敗北したエレトリアのような事例もあり、さらにアテナイにはアルクメオン家のような親ペ ルシア勢力もいたことから、迅速な決戦が必要であると考えたためであろう。そして、彼の勧告に従って交戦 を決定したアテナイ軍はマラトンの野でペルシア軍と戦うことになった。

    マラトンの戦いに関しては布陣した場所や向きもはっきりとしたことは分かっておらず、またペルシア軍の騎 兵に関して戦闘中の記述が見られないなど、実際の戦いに関して正確なことは分かっていない。わずかばかり の情報をもとに書き出していくと、アテナイ軍の布陣はペルシア軍と同じ長さになるように敷かれた。側面突 破・包囲という事態を避けるためにペルシア軍よりも少ない兵力でありながら、あえてそのような陣を敷い たのであろう。さらに、左翼と右翼を中央よりも厚めにしたが、これはペルシア軍の両翼を突破し、包囲殲滅 するためであった。このような陣を敷いてアテナイ軍はペルシア軍に備えたのであった。

    そして戦闘が始まる と、はじめはゆっくりと前進していたアテナイ軍はある地点から突如全力疾走を開始した。資料に書かれたと ころでは布陣したときにペルシア軍との間にあった1.5キロの距離を完全武装で全力疾走したことになるが、 それはおそらく無理であったとされる。おそらくペルシア軍の主要武器である弓の有効射程距離に近づいたあ たりで全力疾走を開始したのであろう。アテナイ軍の突撃により戦端が開かれた。戦いは長時間に及んだとさ れる。中央部ではペルシア軍が手薄なアテナイ軍を押し返し、さらに追撃していった。しかしこれはペルシア 軍を誘い込むための仕掛けであり、ペルシア軍はそれに引っかかってしまったのである。

    やがて、左右両翼を 突破してきたアテナイ軍とプラタイアイ軍がペルシア軍の背後へ回り込むとアテナイ軍が優位に立ち、ペルシ ア軍は敗北した。こうしてマラトンの戦いはアテナイ軍の勝利に終わった。マラトンから逃れたペルシア軍は なおアテナイ攻撃をもくろんでいた。船に乗って逃れたペルシア軍が今度はスニオン岬を回ってアテナイ市の 正面沖に姿を見せた。ミルティアデスはこれを察知すると全軍をアテナイ市近郊にまで引き返し、布陣した。 これを見てペルシア軍は侵攻を断念して撤退したのであった。

    アテナイ人は勝利を神に感謝し、オリンピアにはミルティアデスの兜が奉納されるなど、各地の聖域に戦利品 の奉納を行った。そしてアテナイにおいてはミルティアデスはマラトンの勝利もあり、個人的声望は最高に達 した。そしてこれ以降、彼の私心が頭をもたげはじめ、個人的動機から前489年にパロス島への遠征を行った。 この時、ミルティアデスは遠征地すらあかさずに船と兵員、軍資金を民会に要求し、民会では自分に従うもの を豊かにしてやるとだけ言って遠征を実行に移した。

    ミルティアデスのねらいはパロスのリュサゴラスという 人物が彼を誹謗中傷した事に対する私怨を晴らすためであったと伝えられる。全くの個人的な動機でパロス島 へ遠征したものの、遠征は失敗に終わり、彼は、やがて壊疽を起こして致命傷になる足の傷を負って帰国した。 パロス島遠征失敗のニュースは、ミルティアデス帰国後、政治の世界で勢力を後退させていたアルクメオン家 のような反ミルティアデス勢力には絶好の機会となった。帰国したミルティアデスに対して、アルクメオン家 のクレイステネスの姪の婿クサンティッポス(有名なペリクレスの父親)がアテナイ市民を欺いた罪で彼を告 発し、死刑を求刑した。ミルティアデスは死刑こそ免れたが有罪判決を受け、50タラントンの罰金を科された。 そして裁判が終わってまもなく、罰金を払い終えないうちに、獄舎につながれていた彼は足の傷の壊疽が悪化 して病死した。彼の死後、罰金は息子のキモンが支払った。

  • ミルティアデス有罪の背景
  • ミルティアデスの裁判は告訴理由としてはアテナイ市民を欺いたということが罪状にあげられている。パロス島 遠征を行い、それによりアテナイ市民を豊かにしてやるというミルティアデスの言葉を信じて民会は遠征を認 めた。しかし実際には遠征は失敗したため、そのような罪状があげられたのである。しかし、それだけで莫大 な罰金刑を科するとは考えにくい。別の史料では、アテナイ市民達はミルティアデスがアテナイの僭主となる ことをおそれたために有罪判決が下されたとも言われる。

    裁判そのものは貴族同士の権力争いによって引き起 こされた面があるが、そこで市民達は有罪判決を下したということは、単なる権力争い以上のものがそこに存在したことを窺われるとし、 市民たちの民主政に対する意識の高まりや発言力の高まりをみる見解があり、以下、それに基づいてまとめてみることとする。

    被告であるミルティアデスは、ペイシストラトス一族と友好関係を持っており、ケルソネソスでは僭主として独裁政治を敷いていた。 このような前歴を持つことを考えると、彼はアテナイにおいて僭主になりかねない人物として警戒されやすかった。マラトンの勝利の 立役者という名声を持ち、僭主政に密接する過去を持つミルティアデスは、パロス島遠征とその失敗を機にアテナイ市民達にとって 英雄から危険人物へと変わっていった。遠征失敗を機に、かつてペイシストラトス一族の僭主政治を経験した市民達の間で、一人の 人間に強大な権力を与えることの危険性、僭主政治への恐怖が改めて思い起こされたと想像するに難くない。

    彼がケルソネソスから帰国した直後に起こされた1度目の裁判では民衆の支持などもあり、民会は彼を無罪と した。しかしクレイステネスの改革で民主政治の基礎が作られてから20年近い年月がたち、市民達が民主政治 に対する意識を深めるにつれて、彼のような強力な力と名声を持つ人物は民主政治の脅威とみなされるように なり、2度目の裁判では有罪判決が下されたのであった。

    市民達の意識の変化は、マラトンの戦いに対すると らえ方にも見て取れる。マラトンの古戦場にはマラトンで死んだアテナイ市民を葬った塚とされるものがある が、ミルティアデス個人をたたえたものは存在しない。アテナイ市民達の間の意識として、ミルティアデスは 確かに巧みな戦術でアテナイを勝利に導いたが、それ以上にアテナイ市民が勇敢に戦ったことによってマラトン の勝利は得られたのだと考えたようである。紀元前6世紀を通じて基礎が作られた民主政治のもとで新たに醸成 されてきた市民共同体的価値観が力を持つようになり、やがて古い価値観を駆逐したということが言えるという。

    このような、ミルティアデス有罪の背景について僭主政治への恐怖や市民の民主政に対する意識の高まりをみる見解に対し、 そこまで市民たちの役割を高く評価することに対して抑制的な見解もある。市民の役割よりも、当時の貴族同士の権力闘争 の産物であり、貴族の権力闘争が民会での裁判という舞台で繰り広げられたと考えられるという。

    確かに貴族の権力闘争という要素は無視できないし、市民の役割を高く評価しすぎではないかともいえるが、 貴族たちが権力闘争で勝利するための手段として民会での裁判を利用したりするところなど、それまでには なかった出来事が見られるようになっているということは無視できない。また、民主政治が樹立されてから 20年近い年月が経っているが、20年近い年月に対する評価も影響してくるように思われる。20年近く経っても、 昔はひどい時代があり、今は良くなったということでかつての僭主を実際以上に危険な存在として記憶していても おかしくはない。貴族たちがなお強大な時代であれば、僭主に対する恐怖は当時の人々にはなおリアリティを もって感じられたのではないか。さらに20年という年月に積んだであろう政治的な経験は決して無視できないと 思われる。やはり僭主政治にたいする恐怖や市民の意識の高まりというのは重要な要素だったのではないか。

    (参考文献)
    ヘロドトス「歴史」岩波書店(岩波文庫)、1971年(読んだのは1994年の31刷)
    ネポス「英雄伝」国文社、1995年
    澤田典子「アテネ民主政」講談社、2010年
    橋場弦「丘のうえの民主政」東京大学出版会、1997年

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